2016年3月10日木曜日

徳川家康だけじゃない(5)三河と丹後の技術交流

前回、愛知県岡崎と京都府丹後には古代より共通のキーワード「六ー籠ー亀ー伊勢神宮」が残されていることを紹介しました。

http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/02/blog-post_26.html

この不思議な共通項の現象は偶然ではないと思います。実際の歴史でも三河(岡崎)と丹後は古代より深い関係があったからです。その事例を以下に簡単に紹介します。

岡崎(三河)-丹後ー伊勢神宮
古代より岡崎と丹後と伊勢神宮は深い交流がありました。
by Kanikama


1)第9代開化天皇(前158-前98;弥生時代)の頃:
開化天皇の孫である丹波道主命は丹波国に派遣されます。その子である朝廷別王(みかどわけのみこ)は三河に派遣され統治しました。

2)第21代雄略天皇(456-479;古墳時代、大和朝廷)の頃:
丹波から来た菟上足尼命が三河の穂国造に任命されます。菟上足尼命は菟上神社(三河の豊川に近い)の祭神です。また犬頭神社(三河の六名、矢作川に近い)なども創建して、養蚕、機織、犬頭糸、赤引糸など優れた絹製品を有名にしました。

3) 平安時代の頃:
酒人親王(親王なので天皇の嫡子もしくは皇族男子)が三河に派遣され、三河の米と綺麗な水で、いわゆる「清酒」造りに国内で初めて成功し朝廷に献上しています。それ故、酒人親王は酒人神社(三河の六名の近く)の祭神です。一方で、この神社の祭神は、丹波道主の父(日子坐王)という話もあるようです。 興味深いことに、丹波国にも日本酒の伝承が残っているのです。こちらは「初めての日本酒」が造られたという伝承があります。つまり、米から作るお酒の原型が丹波国から三河に伝わり、三河で清酒として優れた製品に発展したと考えると両方の伝承話が合います。

岡崎市の酒人神社の名前は、平安時代の記録『延喜式』に碧海郡六座の一社として記録があるようです。また、酒人親王についてはよくわからないことも多いのですが、「第26代継体天皇(ヤマト王権の古墳時代)の皇子、菟皇子(ウサギノミコ)は、酒人公の祖」という記録があるようです。なお、古代史には酒人内親王という人物も登場します。内親王なので女性ですが、酒人親王と関係が有るのか無いのかよくわかりませんでした。

4)丹波国の古墳群から東海地方の土器が複数発見されています。三河の北側には東海地方最大規模の猿投古窯群があり、また三河湾に近い南側では優れた特徴ある製塩土器が有名です。

5) 余談ですが、古代の丹波国の記録によると、なんと三河村という地名が天橋立より南側の旧丹波国に残されています。縄文前期の遺跡(三河遺跡)、また古墳(三河古墳)が残っています。三河の名前の由来はわかりませんが、岡崎の三河国から移り住んだ人達が暮らしていた地域かもしれません。

古代より、朝廷や時の権力者にとって三河国と丹波国は、物資面、軍事面の両面でとても重要な場所だったと思われます。丹波国からは新しい技術を、そして三河からは優れた製品を得たのでしょう。

天皇は自分たちの子や親族を丹波国や三河国に派遣することによって、両国の技術を交流発展させ、そこから生まれた優れた製品の権利を獲得し、戦略的に拡散しないように囲ったと思われます。その歴史こそが、岡崎(三河)と丹後に残る謎の共通キーワード群の理由かもしれません。私はそう推理しました。


1 件のコメント:

  1. はじめまして。大変興味深く拝読させていただきました。

    3)第49代光仁天皇(白壁王;770-781、奈良時代)の頃:
    光仁天皇の子である酒人親王が三河に派遣され統治します。三河の米と綺麗な水で、いわゆる「清酒」造りに国内で初めて成功し朝廷に献上しています。それ故、酒人親王は酒人神社(三河の六名の近く)の祭神です。一方で、この神社の祭神は、丹波道主の父(日子坐王)という話もあるようです。

    とのことで自分でも調べてみようと思ったのですが、それらしきいわれに行き着くことが出来ませんでした。出典もしくは情報源はどちらを当たれば見つかりますでしょうか?

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