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「六」というのは大変不思議で重要な数字です。実は、日本国の成立時に非常に大切な役割をした数字でもありました。今回は「日本国の成立と六」ついて話します。
では、なぜ「六」が「日本国の成立」と関係があったのか?それは「稲作」と「六」が深い関係にあったからです。以下に説明をします。
ご存知のように、日本の文化は縄文時代から弥生時代、そして大和王権〜古墳時代へと続きますが、その頃の日本は、各地で大小の有力者や豪族がいて、時に協力したり争ったりしながら日本は緩い形でまとまっていたと言われています。
そのような時代が続いた後、ついに現代と似た「国」の制度が始まります。つまり中央政権が出来、中央の政府が中心となって日本「国」を統治する制度です。それが行われたのが飛鳥時代の頃で、聖徳太子が大化の改新で活躍した時代です。律令制度という法の下で国を一つにまとめる作業が始まり、十七条の憲法を制定しました。「和を持って貴しとなす」という日本らしい有名な条項があります。
さて、この統一国家の実現は理想だけではできません。現実問題、莫大なお金(政府予算)が必要となります。新たな制度を実行するには、人件費や経費、公共の整備など政府予算が必要となります。
つまり中央政府は予算を賄うために、各地から税を集める必要に迫られました。しかも、継続的に安定した税が必要です。
では、税収入の主役は何でしょうか?それは、稲作(米)による税収でした。それ以外の各地の特産物も産業の発達とともに税として出てきますが、それでもお米は安定して継続的に徴収できる税の主役でした。お米は日本経済の中心であり続けました。お米が市場貨幣の価値を持っていました。それは古代から江戸時代まで変わらず同じでした。
しかし大きな問題がありました。日本の古代では長い間、各地は各有力豪族が支配していたので、水田の広さの測定法は、各地ごとに基準がバラバラだったのです。これでは、水田の稲作からの税収入を期待しても、税収入がバラバラになって機能しません。
つまり、日本「国」を一つにまとめるためには税収入の安定化が必要であり、そのために中央政権がどうしても着手する必要があったのは、国の統一基準に基づく土地制度でした。
そこで新しい土地制度として、日本独自の条里制や班田制の制度が定められました。内容は試行錯誤しながら奈良時代から平安にかけて完成されていきました。
そして大変興味深いことに、この土地制度は「六」という数字が軸となり成立していくのです。次回に続く。https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2017/11/blog-post_23.html
図はかながわの地籍調査HP参照 |
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