2016年3月19日土曜日

徳川家康だけじゃない(6)岡崎市籠田町の歴史秘話

今から約50年ほど前、昭和30年代の話です。愛知県岡崎市の籠田(篭田)公園のすぐ西側に、今はもうありませんが当時少し風変わりな甘味処の店がありました。

何が風変わりかと言いますと、その店の入口には「女性センター」と書いてあり、実際に女性客専用のお店でした。ある日、まだ小学生低学年だった私は姉と一緒にあんみつを食べようと店に入ると「ここは女性のお店だよ」と断られた記憶があります。思春期以上の男子ならまだしも、なぜ小さい子供でも男は入店禁止なのかとても不思議に思いました。

その後この店のことはすっかり記憶から忘れていました。これからお話しする知られざる籠田町の歴史秘話に出会うまでは。今回は中世から近世に起きた興味深い籠田の物語です。

現在の籠田公園 (写真:goo wikipedia)

「明阿尼僧の物語」

「現在の籠田公園の場所に、鎌倉・南北朝時代の頃より昭和初期の頃まで、尼寺があった。この尼寺を創建した「明阿(みょうあ)尼僧」の物語である。

岡崎市の中央にある籠田公園の辺りは、古い時代は菅生(すごう)郷と呼ばれた。この菅生郷には鎌倉時代から高氏(こうし)(本姓は高階氏)の一族が所有する広い相田があった。相田とは河川の跡に水田を作ったものである。

明阿(みょうあ)は、鎌倉(1185-1333)の末期から南北朝時代(1336-1392)頃を生きた女性で高氏の家系に生まれた。父は優れた武将の高師泰(こうもろやす)。高氏は歴代鎌倉幕府の執事として足利尊氏を支え、強い権力を持っていた。明阿は兄が二人いたが一人娘としてとても大事に育てられた。夫は鎌倉幕府・関東執事の高師冬である。このような華麗な家柄に生まれた明阿は何ひとつ不自由の無い、恵まれた生活を生涯送れるはずであった。

しかし明阿は過酷な運命に翻弄される。世の常として栄華はいつまでも続かない。転機は突如現れた。観応の擾乱(かんのうのじょうらん)(1349-1352)で高氏一族は敵方に惨敗する。

当時、足利尊氏とその弟の足利直義の分裂から全国的な抗争が起こり、それに関連して朝廷も北朝と南朝に分かれての争いが起きていた(南北朝時代)。その一連の抗争の中で、高氏は最終的に敵方に敗れてしまう。和睦をするが、敵方に恨まれた高兄弟と親族達は京都に護送中に全員殺害されてしまったのである(1351年)。

さらにその後、明阿の夫の高師冬も敵方に追い詰められて自害する事件が起きる。
つまり、高氏の一族はほぼ滅亡したことになる。

高一族は長く執事として足利尊氏に仕えてきたが、最後はその尊氏からの助けはなく裏切られる結末を迎える。高氏の悲劇と呼ばれる所以である。

しかしここに娘がひとり生き延びていた。それが「明阿」である。

明阿は自分の身にも危険が迫るなか三河の菅生郷の籠田(現在の愛知県岡崎市篭田町辺り)に身を寄せることになる。ここには高氏一族の相田もあり、「自分を支えてくれる唯一信頼できる場所」と信じたからであった。

記録にはないが、明阿には幼いひとり息子がいた。戦乱の世、後継ぎの可能性を持つ男の幼児がいることを敵方が知れば身の危険を意味する。それ故、諸事情から記録には残されなかったのかもしれない。

高氏の完全失脚を狙う敵からすれば、高氏の血を受け継ぐ子(特に男)はたとえ小さな子供でも残したくない。一人でも残せば後年成長して返り討ちにあうかもしれない。それは過去の多くの歴史が証明しているからである。

明阿は焦っていた。「私はどのような境遇になっても構わない。しかし父の高一族をここで根絶やしにするわけにいかない。」「父も兄も夫も殺害された今、何としても幼い息子を生き延びさせないといけない」。明阿は菅生郷の籠田に住む親しい者に相談をし、ある決断をすることになる。それは、、、

幼い一人息子は密かに親しい知人の家に養子に出して「別姓」にする。その上で、自分は子供のいない未亡人として尼寺を創建し尼僧になり出家する。こうすれば、成長するまで、息子の存在を敵の目から守ることができる。

いずれ機会をみて、亡くなった兄の高師世の家に再度養子縁組をさせる。外部から見れば、「別姓」からの養子縁組。身の危険は少ない。こうして無事成長して養子縁組を果たした子は、後に高師秀(こうもろひで)と名乗ることになる。

この明阿の知恵により、高師泰(父)・師世(兄)の後は師秀(息子)が継承し、高氏の血脈を後世まで保つことに成功したのである。

実際に、1355年、明阿は菅生郷の篭田町に総持尼寺を創建して出家している。この尼寺は昭和2年に籠田町の東に位置する中町に移転されるまで、長い間、籠田総門南の総構え内側に存続したのである。つまり記録が正しければ、籠田の尼寺は500年近くも続いたことになる。

尼寺は当時、使用人も全て女性とし、固く男性の出入りを禁止した。幼児の男の子でさえ厳格に出入りを禁止した。それは明阿の身を守るためでもあるが、自分の息子が母に会いに尼寺を訪れる危険性を避けるためでもあった。高一族の血を守ることに命を懸けた明阿は生涯自分の息子に母として会うことはなかった。」 (終わり) 

物語は以上です。

私は昭和の初期まで愛知県岡崎市籠田町にかくも長きにわたり総持尼寺があった歴史を知り驚きました。時代とともに尼寺の役割も変わり、やがてその役目を終えます。かつての尼僧達や出入りの女性使用人達が、その後の時代をどのように生きたのか今となってはわかりません。

時を経て日本も戦後の時代になります。私は昭和30年代頃まで籠田公園の横にあった不思議な「男性禁止」の甘味店「女性センター」を思い出しました。

誰が何のためにあの店を始めたのでしょうか。ひょっとしてかつての尼寺の関係者でしょうか。それとも、、、想像が膨らみます。今となっては懐かしくて気になるお店です。

(高氏と尼寺の歴史は「岡崎額田の歴史、上巻 郷土出版社1996年」を参考にしました。物語は一部 kanikama の推理も交えて構成しました。)

2016年3月10日木曜日

徳川家康だけじゃない(5)三河と丹後の技術交流

前回、愛知県岡崎と京都府丹後には古代より共通のキーワード「六ー籠ー亀ー伊勢神宮」が残されていることを紹介しました。

http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/02/blog-post_26.html

この不思議な共通項の現象は偶然ではないと思います。実際の歴史でも三河(岡崎)と丹後は古代より深い関係があったからです。その事例を以下に簡単に紹介します。

岡崎(三河)-丹後ー伊勢神宮
古代より岡崎と丹後と伊勢神宮は深い交流がありました。
by Kanikama


1)第9代開化天皇(前158-前98;弥生時代)の頃:
開化天皇の孫である丹波道主命は丹波国に派遣されます。その子である朝廷別王(みかどわけのみこ)は三河に派遣され統治しました。

2)第21代雄略天皇(456-479;古墳時代、大和朝廷)の頃:
丹波から来た菟上足尼命が三河の穂国造に任命されます。菟上足尼命は菟上神社(三河の豊川に近い)の祭神です。また犬頭神社(三河の六名、矢作川に近い)なども創建して、養蚕、機織、犬頭糸、赤引糸など優れた絹製品を有名にしました。

3) 平安時代の頃:
酒人親王(親王なので天皇の嫡子もしくは皇族男子)が三河に派遣され、三河の米と綺麗な水で、いわゆる「清酒」造りに国内で初めて成功し朝廷に献上しています。それ故、酒人親王は酒人神社(三河の六名の近く)の祭神です。一方で、この神社の祭神は、丹波道主の父(日子坐王)という話もあるようです。 興味深いことに、丹波国にも日本酒の伝承が残っているのです。こちらは「初めての日本酒」が造られたという伝承があります。つまり、米から作るお酒の原型が丹波国から三河に伝わり、三河で清酒として優れた製品に発展したと考えると両方の伝承話が合います。

岡崎市の酒人神社の名前は、平安時代の記録『延喜式』に碧海郡六座の一社として記録があるようです。また、酒人親王についてはよくわからないことも多いのですが、「第26代継体天皇(ヤマト王権の古墳時代)の皇子、菟皇子(ウサギノミコ)は、酒人公の祖」という記録があるようです。なお、古代史には酒人内親王という人物も登場します。内親王なので女性ですが、酒人親王と関係が有るのか無いのかよくわかりませんでした。

4)丹波国の古墳群から東海地方の土器が複数発見されています。三河の北側には東海地方最大規模の猿投古窯群があり、また三河湾に近い南側では優れた特徴ある製塩土器が有名です。

5) 余談ですが、古代の丹波国の記録によると、なんと三河村という地名が天橋立より南側の旧丹波国に残されています。縄文前期の遺跡(三河遺跡)、また古墳(三河古墳)が残っています。三河の名前の由来はわかりませんが、岡崎の三河国から移り住んだ人達が暮らしていた地域かもしれません。

古代より、朝廷や時の権力者にとって三河国と丹波国は、物資面、軍事面の両面でとても重要な場所だったと思われます。丹波国からは新しい技術を、そして三河からは優れた製品を得たのでしょう。

天皇は自分たちの子や親族を丹波国や三河国に派遣することによって、両国の技術を交流発展させ、そこから生まれた優れた製品の権利を獲得し、戦略的に拡散しないように囲ったと思われます。その歴史こそが、岡崎(三河)と丹後に残る謎の共通キーワード群の理由かもしれません。私はそう推理しました。