2015年8月31日月曜日

龍の道と古道(1)琵琶湖の東に龍の道

龍(竜)の付く地名は全国に幾つもあります。特に、日本の地層の割れ目がある中央構造線~フォッサマグナ地帯にかけての緩やかな曲線に沿って、竜の付く地名が比較的多く見つかることは有名です。


しかし今回、地図を良く見ていたら、それとは別に、琵琶湖から東方向にまっすぐに並ぶ新しい「竜の道」を発見しました。



「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ライン by Kanikama

図の左から、三上山(滋賀県)-竜王町(滋賀県)-竜王山(滋賀県)-竜ヶ岳(滋賀県)-竜神町(愛知県)-竜頭山(愛知県)-竜頭山(静岡県)-竜爪山(静岡県)です。東西に一直線に並んでいました。

三上山には琵琶湖の竜神の有名な伝説があるので、八箇所も「竜」が東西に一直線に並んでいることになります。これだけ並ぶのは珍しく壮観です。

略して、「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインと呼びたいと思います。

たまたま偶然に重なった現象かもしれません。しかしどうしてこうなったのか、その謎を考ることはとても面白いと思います。

何か地理的な意味(自然現象)が土台にあるのか、または幾つかの歴史上の出来事が背景にあるのか等、しばらくいろいろと推理を楽しんでみたいと思います。

次回に続く。




2015年8月28日金曜日

理系の元祖「日置族」(13)日置族の文献

古代・日置族について、より詳しく知りたい方は、以下の文献をお勧めします。

1)古代日本人の信仰と祭祀(大和書房):太陽祭祀と古代氏族ー日置部を中心としてー(井上辰夫著)。



2)古代人の思考の基礎:「折口信夫全集3」(中央公論社)。

3)古代王権と宗教的部民:井上辰夫博士論文・要旨(筑波大学)

4)古代日本の暦に就て(7) 「天界 20(233):324-326(1940)」(京都大学)

5)古代日本の暦に就て(8) 「天界 20(234):368-370(1940)」(京都大学) 

なお、2)3)4)5)の文献はネット検索からも内容を見ることが出来ます。

2015年8月27日木曜日

理系の元祖「日置族」(12)日本人は理系民族

古代日本において、「伊勢」は太陽(日)の出づる所。「出雲」は太陽(日)の沈む所です。この太陽の道に沿って 伊勢にも出雲にも「日置」の地名や足跡が多く残されています。

太陽暦、測量などの高い技術を有し、日暦(太陽暦)を扱っていたとされる日置族。今も地名や、神社名、皇室の行事などに名前を残す「日置」。

冬至の日の出 伊勢神宮

また、日置の郷では製鉄や古墳技術も扱っていたことがわかっています。

さて、古代の理系・技術集団であった日置族の子孫たちは、古代のみならず、中世、近世、明治維新でも活躍したようですが、なぜそのようなことが可能だったのか考えてみましょう。

その理由は、彼らの特徴が理系の氏族だったからでしょう。日置族は政治や歴史の表舞台には出てきません。しかしそれが幸いしました。

時代が変わっても、権力者が代わっても、理系技術と理系の思想は、時に学問に、時に武術に必要とされたのでしょう。

稲作にも絹の養蚕技術にも理系技術が必要です。そうして、各地の有力氏族との縁組を介して、そこで別の氏名となり、それぞれの氏族の中興の祖となり活躍したのではないでしょうか。

だから、現代も氏名は違っていても、日置族の理系DNAを引き継いだ末裔たちは日本に多くいて別姓で活躍していることでしょう。このブログを読んでいる貴方も日置族の末裔かもしれません。 

ご承知のように、日本はアジアの中では、なぜか理系がダントツに強いです。2013年1月時点の統計でも、科学系ノーベル賞受賞者は15人で、アジア地区ではぶっちぎりの1位です。2位イスラエル(4人)、3位台湾(2人)、4位インド、パキスタン(各1人)。その他、中国と韓国等は0人です。

(追記: 2016年10月3日時点で、日本人のノーベル受賞者は計25人に増えてます。その中で、文学賞(川端康成、大江健三郎)、平和賞(佐藤栄作)以外の22名は全て科学系の受賞です。つまり日本人のノーベル賞受賞者の約9割が理系です。やはり日本人は理系民族と言えますね。)

なぜ、日本人は同じアジア人の中でもこれほど理系が強いのでしょうか?単純に経済力の差だけではないようです。充分な経済力があり、今や米国への留学生数は日本より断然多い中国・韓国には残念ながら理系の受賞者はほとんどいません。

つまり、ノーベル賞級の高い科学や技術のレベルは、長い歴史の積み重ねが必要です。日本人には古代より、稲作でも絹織物でも土器でも高い品質を追い求める特性があります。
長年の積み重ねが大切で、まさしく「技術大国日本は一日にして成らず」です。

日本人は現代でも、海外との交渉や、目立つ表舞台での活躍、駆け引き等は苦手です。

しかし誠実な性格で、細かい観察が得意です。高い技術やモノに喜びを感じます。

裏返して言えば、駆け引き交渉が苦手、大局観が苦手、こだわりすぎる傾向、とも言えます。これらの特徴が、大陸アジア人や半島アジア人との決定的な違いと言えます。

現代でも「物づくり日本」は、科学技術が得意な理系民族なのです。

そして、それは古代の日置族が持っていた特徴と重なります。
日置族は「技術立国・日本」「理系大国・日本」の元祖でした。

リオのオリンピックでも証明されたように、スポーツの分野でも同じです。パワーよりも技の美しさと完成度、そして技術を大切にします。日本人は文化、生活、スポーツどの分野でも理系のDNAを持つ民族と言えます。文学の分野でも、日本人作家は細かい描写を丹念に観察して描写するのが得意です。

このブログをお読みの皆さんも、現在は別の氏名でも、専門分野は別の文系、経済、スポーツ系でも、古代日置族のDNAを受け継いでいる、日置族の末裔かもしれません。

次回は、より日置族を知りたい方のために、参考図書、文献のリストを紹介します。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_28.html

2015年8月26日水曜日

理系の元祖「日置族」(11)織田信長と日置神社

日本全国に日置神社はいくつかあります。それぞれ興味深い由来があると思われますが、ここでは尾張・名古屋の日置神社を紹介します。

正確な創立年は不明ですが、平安時代に編纂された延喜式(905年~)に記載されている「尾張国愛智郡日置神社」にあたるので、かなり古くからある由緒ある神社です。神社名は暦を司る日置部に由来します。

名古屋市の日置神社(神社探訪HP写真)
永禄3年5月、織田信長が桶狭間の戦いへ出陣の折、日置神社へ祈誓しました。織田信長は桶狭間の戦いで勝利し、そのお礼に松樹千本を植えました。これより、「千本松日置八幡宮」とも呼ばれています。

桶狭間の戦いの時、圧倒的多数の今川義元の軍に対して、織田信長軍は少数。それまで尾張を拠点としてきた織田家は実際、滅亡の危機でした。

この命運をかけた戦いの前に日置神社に祈願に立ち寄ったということは、単に進軍の時間稼ぎが目的だったとは思えません。日置神社は織田家の祖先と何らかの関係があり先祖に勝利を誓ったか、もしくは信長が頼りにした戦の神に祈願をしたのではと推測します。

戦の神と言えば、全国4万社あると言われる八幡神社の祭神である応神天皇です。武運の神である応神天皇は日置族の祖でした。
http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_90.html

なお、戦国時代を代表する弓道の流派となった日置流・印西派の創始者である吉田重氏の子孫達は、織田信長や織田信雄に仕えています。

さらに、近畿のみならず、名古屋にも平安時代から日置荘という荘園があり、日置族の拠点のひとつでした。また名古屋には昔、日置城もありました。日置城の城主は織田寛定もしくは織田忠寛でした。

まとめます。織田家の拠点である尾張には古くから日置荘がありました。尾張日置城の城主は織田家でした。さらに織田家は戦国時代日置流弓術を採用して戦を行いました。織田信長は桶狭間の決戦前に日置神社で戦勝祈願を行い、勝利後に千本松を贈りました。

このように日置と織田の関連は幾つも出てきます。もしかしたら、織田信長の祖先も日置族とどこかでつながっているのかもしれません。

次回は、まとめです。現代の理系・日本の源流はすでに古代からありました。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_27.html




理系の元祖「日置族」(10)長州、薩摩の祖は日置族


古代時代では、日暦や測量技術などで活躍した日置族ですが、その後の時代(中世~近代)ではどうなったのでしょうか? 

彼らは、時に天皇から別姓を賜り(日置族について(8)参照)、また他の有力氏族との婚姻関係を持ったりしながら活躍します。

こうして子孫たちは日置の姓とは異なる氏名で様々な氏族の祖ともなっていきます。

例えば、以下のことから、長州や薩摩は古代・日置の末裔であることがわかっています。 

1) 長州藩の毛利氏は、山城国(現在の京都)の日置族・大江氏の子孫。 2) 薩摩藩の主家、祖・島津忠久は武蔵国(現在の関東府中)の日置族・比企禅尼の孫。

祖・島津忠久: 平安末期~鎌倉末期

つまり、武家社会の時代から明治維新まで、社会を変革する原動力となった長州や薩摩はともに、古代・日置族の末裔でした。

日置族は主に技術系実務を基盤とした理系氏族だったので、政治の表舞台や歴史教科書には名前は出てきません。しかしそれがかえって良かったのかもしれません。

 なお、室町時代・中世の頃から伝わる伝統的な弓道武術にも「日置」が出てきます。小笠原流は形式美の流派ですが、それに対し実践的な和弓の代表流派が「日置流」です。

応仁の乱など戦国時代で活躍し、弓道の主流となりました。日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)が創始者と言われています。ここでは割愛しますが、いろいろ不思議な伝説が残っていますのでご興味のある方はどうぞ調べてみてください。

次回は、日置神社と織田信長の関係をお話しします。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_12.html


日置弾正政次(wikipedia図)ji

2015年8月25日火曜日

理系の元祖「日置族」(9)日置族は出雲に派遣された

日置族は出雲と深い関係があります。
出雲大社神楽殿HPより写真

出雲大社復元図(張仁誠氏復元、大林組)

日置族は中央政権ヤマトから出雲に派遣され、大領として出雲地方を統治したと記録が残っています。 

日置族は出雲出身との記述を時々見ますが、もともとは近畿・京都の日置族が出雲に派遣されて、その後出雲にも基盤を置いて発展したと思われます。

出雲の神を支配下に置くために、天上(大和政権)から降りてきた神 「天穂日命(アメノホヒノミコト)」の子孫として、日置族は出雲で高い位を持つようになりました。 「天穂日命(アメノホヒノミコト)」は、天照大神の第2子です。

神話で言えば、日置族の祖先は天津国系の神ですが、国津国にも派遣されて活躍したので、その後、子孫達は両方で地盤を築いたと思われます。

現在でも、日置という地名や姓を持つ人たちは、近畿地方、中部地方が中心ですが、西日本にも多く残っているのは出雲派遣があったからと思われます。


次回は、中世、近代を生きたの日置族の子孫たちのお話です。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_26.html

理系の元祖「日置族」(8)祖先は天照大神および応神天皇

日置族は天照大御神および応神天皇の子孫となります。

 古事記、日本書紀に以下の記述があります。(日置族ファンクラブHP、wikipedia参照)

1) 「紀伊の日置首(ヒオキ・オビト)」は、天照大御神の第2子である 「天穂日命(アメノホヒノミコト)」の子孫。

天照大御神(アマテラス・オオミノカミ)
「斎庭の稲穂」 今野可啓画
2) 「京師の日置臣(ヒオキ・オミ)」は、「菅原朝臣(スガワラアソン)」の姓を天皇から与えられた。菅原氏は天穂日命の子孫で、大江氏と並んで子孫は代々、紀伝道(文章道)を家業として朝廷に仕えた。 

3) 「日置部の伴造(トモノミヤツコ)である幣岐君(ヘキノキミ)」は応神天皇の子である「大山守命」の子孫。

第15代天皇 応神帝御影
(河内国誉田八幡宮蔵)

従って、日本各地に住む日置族は、各々出身・由来、身分などが異なると思われますが、紀伊や京都の日置族は、天照大御神もしくは応神天皇の子孫であることがわかります。

なお、琵琶湖の北東部、近江国伊香郡の天比比岐命神社(滋賀県長浜市高月町高野)には、日置部の祖神は天太玉命(あめふとだまのみこと)と記載があるようです(「神社の世紀」参照)

天太玉命(あめふとだまのみこと)は、岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を外にさそいだすため、天児屋命(あめのこやねのみこと)と祈祷(きとう)をおこなった神です。天孫降臨の際、一緒に付き添った一神でもあります。このことから、日置族の祖先は天孫系でり、出雲系ではないと思われます。


次回(9)では日置族と出雲の関係をまとめます。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_7.html

理系の元祖「日置族」(7)浦島太郎と300年

日本の有名な昔話「浦島太郎」の伝説にも「日置」が登場します。

「丹後国風土記逸文」(713~)によると、浦島太郎が海で五色の亀と会うのが天の橋立に近い日置の里、つまり現在の京都府宮津市日置です。

浦島太郎は 龍宮城に行き歓待を受けますが、ふるさとに戻った時に乙姫様からもらった玉手箱を開けると、その煙によって約300年の時間が進んでしまいます。時間(暦)に関するとても不思議な昔話です。

浦島太郎記念切手
この物語が、日暦を扱う日置族の里で起きていることからも、実際に起こった歴史上の出来事がこの物語に封じ込められている可能性があります。

浦島太郎の物語にはどのような意味が込められているのでしょうか。
いくつかの説が出ていますが、説得力のあるものはまだないように思います。

kanikamaの推理ですが、この時代は、それまで日本で使われてきた「日本古来の太陽暦(日置暦とも言う)」に対して、「大陸由来の太陰太陽暦」が伝わった頃であることから、二つの暦の間には、表記法上で年数のずれが約300年あったことを意味しているのかもしれません。そのギャップと混乱を上手く物語に込めたのかもしれませんね。

皆さんはどうお考えでしょうか。

次回は、日置族の祖先のお話をします。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_90.html

2015年8月24日月曜日

理系の元祖「日置族」(6)深曽木の儀と日置盤

天皇家では、5歳になると成長を祝い、「着袴の儀」及び深曽木(フカソギ)の儀」を行います


特に、「深曽木(フカソギ)の儀」は、古代の皇室祖先天上から地上の日本降臨した表す儀式と考えられています。平安時代から皇室に伝わる儀式と言われています。


41年ぶりに行われた悠仁親王(5歳)の深曽木の儀(2011)

特殊な碁盤(21x21路、20x20マス)の上(天上を意味する)に立ち、下(地上を意味する)に飛び降ります。通常の碁盤は19x19路、18x18マスなので同じ碁盤ではありません。

この儀式に使う特殊碁盤日置盤」と呼ばれています。

日置盤は天上の神々が住む世界(宇宙)を表言われています

古代の太陽暦を扱った日置族の名前は、現代の皇室の行事にもしっかりと残っているわけです。

次回は、浦島太郎の不思議な昔話と日置族の関係をお話しします。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_25.html

 

2015年8月23日日曜日

理系の元祖「日置族」(5)日本古来の理系氏族

日置族の特徴については諸説ありますので、ここでは辞書(埼玉苗字辞典から代表的な内容を紹介します


日置に根拠地を置く一族は「日置部」と呼ばれ古代から続く名族。

2)日」とは「火」で、神霊を迎える聖火の準備をする役職でもる。

また太陽の移動によって時間を測定し、あわせて日暦を記録するつまり読みをする人たち(日置部)ではないかと思われる。
 

以上は、日置族の名前に由来に関する共通の理解です。但し、西日本を中心に広く分布していた各地の日置族は、その職位、専門性、出身・由来など必ずしも同じだったとは言えません。
(詳しくは、理系の元祖「日置族」(8)参照) 
http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_90.html)。
                            

さらに、もう一つ重要な特徴があります。

それは、各地の日置族の調査から、太陽暦のみならず、土木建築、鉄製品、古墳造りなどの高い技術を有した日置族が多くいました。

さて、「優れた技術は渡来人によって大陸から日本に伝わった」と書けば安心する歴史家が今も多くいます。これは大変残念な発想です。日本は古くから現在に至るまで世界トップクラスの文化や技術を持っています。しかし、なぜか欧米人や大陸アジア人に対して必要以上に卑屈になる日本人(特に知識人や新聞記者、マスコミ人に多いので深刻な問題です)がいて、日本の歴史を過小評価してきました。

現在でも日本のマスコミ人と学者は他国の評価ばかりを気にする傾向がとても強く、自分自身の内面から出る考えがありません。心理学ではこのような性格の人のことをミラーマン(鏡人間)と言うそうです。

ところが、日本人は昔からアジアの中でもなぜかダントツ理系が強い民族です。もともと大陸アジア人と日本人の特質が違うことは、ミトコンドリアDNA分析からもわかっています。例えば大陸アジア(中国、韓国)人と日本人は祖先が人種的にも異なることが科学的に証明されています。

もちろん交流によって、海外から様々な新しい技術やモノが日本に伝わったことはあると思います。しかし多くは新しくても未熟な基本技術であったり、使い勝手の良くない原型だったのです。

そこに日本人固有の優れた理系の技術の介入と改良があって初めて、多くの人が使用に耐える高い技術や完成品となり、そこで初めて国内や国外に拡散していったと思われます。古代も現代もそれは変わらないのです。

時折、日置族は高い技術を持っていたので渡来人ではという説をみますが、それも同様に早とちりでしょう。事実はまるで逆だったのです。一部の大陸製品を日本に持ち込んだ渡来人が、日本古来の技術集団日置族などと共同で作業を行い、日本でより高度な技術や製品に変化していったのです。

製鉄技術がそのよい例です。朝鮮半島よりも古代日本の製鉄技術はとても複雑で高度でした。まるでレベルが違います。土からとれる鉄の原料成分が日本では違うから基本技術も違う。日本刀で使われる繊細な鋼の技術レベルも朝鮮半島にはなかった。つまり、高い技術を開発し持っていた氏族は大陸や朝鮮人由来ではなく、古代日本人の技術集団氏族だったのです。

但し、多くの渡来人は日本のが安全で技術も高いので、日本で仕事を続けました。日本で生活し続けるために日本人古来の氏族の名前を名乗ったり、帰化したりした例が多かったのです。昔も今も同じことを繰り返しているのです。

大陸から太陰太陽暦が日本に伝わるずっと以前から、日置族は日本で日本固有の太陽暦(日置暦)を扱ってきた氏族であったことからも、日置族は日本古来の理系氏族(太陽信仰の民族)と考えます。

日本古来の太陽暦については、以下を参照。
http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_8.html

次回は、現在の天皇家にも残る儀式と日置盤についてお話します。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_24.html


日置族のイメージ図
山口県・北浦百景HP参照

2015年8月21日金曜日

理系の元祖「日置族」(4)日置暦は日本古来の太陽暦

明治時代以降の現代日本では、西洋暦(太陽暦)と和暦(元号)との両方が併用されています。

では、古代ー中世ー近世の日本ではどのような暦が使われたのでしょうか。

約6世紀頃に中国暦 (太陰太陽歴) が日本に紹介されます。それ以後は、各時代毎に幾度かマイナーな修正がされますが、明治時代になるまでは基本は太陰太陽歴が続いたようです。

ではさらにさかのぼって、6世紀に太陰太陽歴が入ってくる以前の日本はどうだったのでしょうか。6世紀以前の古代日本には日本固有の暦がありました。古代の日本では、日本独自の「日暦(太陽暦)」が使われていたようです。そして、民俗学者の折口信夫は「古代より天皇は日置暦というものを持ってた」と記しています。太陽信仰の古代日本では、月暦(太陰暦)ではなく太陽暦で生活をしていたという説が有力です。

つまり、日本の暦は、「日本古来の太陽歴(日置暦)」→ 「中国由来の太陰太陽暦」→ 「西洋由来の太陽暦(グレゴリオ暦)」と変遷してきたことになります。

時代毎に新しい暦制度が導入されても、古くから人々の暮らしに根付いた行事や生活習慣は簡単には変わらず残っていくことが多々あります。昔から続く日本固有の風習や行事は大切にしたいと思います。
「役立ち生活情報HP」の図
古代の天皇や有力豪族は、日置暦(日本古代の太陽暦)を用いて祭り事を行い日本を統治していたと考えられています。この日置暦を作成し管理していた一族が日置族と呼ばれています。この説が現時点で一番有力だと思います。

では、次回(5)では、日置族の基本的プロフィールをまとめておきます。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html

理系の元祖「日置族」(3)太陽の道 レイライン

NHKのテレビ番組がきっかけとなり、「日置族」は世に広く知られることになりました。

建国記念日放送されたNHK特別番組「知られざる古代 の北緯3432分を行くー」(1980年)において、「伊勢神宮(斎宮)を中心に古代の重要な遺跡が東西を結ぶ「太陽道」に沿って並んでいる」ことが紹介され、多くの人が驚きました。
太陽の道(レイライン) 水谷慶一ら


 1太陽が動く道」に沿って古代の重要な遺跡一列に並んでい
 2不思議現象には太陽暦および測量の知識を持つ日置族」が深く関与


賛否両論ある説ですが、非常にインパクトある番組内容であったの多くの人が日本古代史および謎の日置族に興味を持つきっかけとなりました。

本名孝至 宮司著 「淡路島と國生み傳承雜考」


上図は、淡路島の伊弉諾(イザナギ)神社石碑に彫られている「太陽の道」です。淡路島は神話による日本国誕生の地で有名です。伊弉諾(イザナギ)神社は日本最古の神社とされています。



大変興味深いことに、これらの「太陽の道」の軌道に沿って各地に日置族が住んでいたことが見つかっています。日置族は、太陽の運行から正しい方角・方位、距離、測量ができたと思われます。

この技術は、天皇を中心とする国内統治、および重要な建物の建築などにとても重要な役割を果しました。この貢献度からも、天皇に近い有力豪族である「臣」の位を得ていたことは納得です。

そしてもうひとつの日置族の特徴について、次回の「理系の元祖日置族(4)」でお話します。

https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_8.html