2015年8月26日水曜日

理系の元祖「日置族」(10)長州、薩摩の祖は日置族


古代時代では、日暦や測量技術などで活躍した日置族ですが、その後の時代(中世~近代)ではどうなったのでしょうか? 

彼らは、時に天皇から別姓を賜り(日置族について(8)参照)、また他の有力氏族との婚姻関係を持ったりしながら活躍します。

こうして子孫たちは日置の姓とは異なる氏名で様々な氏族の祖ともなっていきます。

例えば、以下のことから、長州や薩摩は古代・日置の末裔であることがわかっています。 

1) 長州藩の毛利氏は、山城国(現在の京都)の日置族・大江氏の子孫。 2) 薩摩藩の主家、祖・島津忠久は武蔵国(現在の関東府中)の日置族・比企禅尼の孫。

祖・島津忠久: 平安末期~鎌倉末期

つまり、武家社会の時代から明治維新まで、社会を変革する原動力となった長州や薩摩はともに、古代・日置族の末裔でした。

日置族は主に技術系実務を基盤とした理系氏族だったので、政治の表舞台や歴史教科書には名前は出てきません。しかしそれがかえって良かったのかもしれません。

 なお、室町時代・中世の頃から伝わる伝統的な弓道武術にも「日置」が出てきます。小笠原流は形式美の流派ですが、それに対し実践的な和弓の代表流派が「日置流」です。

応仁の乱など戦国時代で活躍し、弓道の主流となりました。日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)が創始者と言われています。ここでは割愛しますが、いろいろ不思議な伝説が残っていますのでご興味のある方はどうぞ調べてみてください。

次回は、日置神社と織田信長の関係をお話しします。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_12.html


日置弾正政次(wikipedia図)ji

2 件のコメント:

  1. ごく最近堺市に引っ越してきたのですが、日置荘の地名の近くの東区役所に行ったついでに荻原天神に寄ったところ、熱心に参拝する人がとぎれないようすで感心してみていました。参拝者は鹿児島のような濃い顔立ちの人が多かったです。住民全体はいろいろな顔の人がいるのにもかかわらずです。参拝者は昔からこのあたりに住んでいる人々の子孫と推測しました。この区には出雲大社の分社もあります。なのでみみを読んで納得しました。

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    1. ひささんコメントありがとうございます。確かに鹿児島出身の芸能人は顔立ちが濃いことで有名ですね。ご存知のように、鹿児島県の真ん中に日置市があります。古代より薩摩国薩摩郡日置郷に日置荘があり、その後、島津荘内日置荘(日置北庄,日置南庄)となったそうです。堺市にも鹿児島にも日置荘があったんですね。

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