古代の三河地方は絹織物や塩など最高品質の物作りをして、朝廷からも一目置かれていたことを以前紹介しました。
http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/02/blog-post_20.html
それから1,500年近く経った現代でも、トヨタが日本の経済力をけん引し、日本の優れた技術と品質は世界中で評価されています。ご承知のように、そのトヨタの前身は三河の織物業です。古代より連綿と続く三河地方の底力。これが世界を制覇したトヨタの根底にあることは間違いありません
。「技術大国・日本は一日にして成らず」です。
しかし、三河の底力は優れた物作りだけではありませんでした。古代より三河は日本の歴史を動かす大きな原動力であり起点でした。
とりわけ、kanikamaが注目した「三河ー尾張ー丹波」連合とも言える地域は日本の古代史と天皇に強い影響力を与えてきました。
以下にそのポイントをまとめます。
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日本の歴史を動かした「三河国ー尾張国ー丹波国」
上のライン(右から):三河(岡崎)ー尾張(名古屋)ー丹波(京都)
下のライン(右から):伊勢神宮ー奈良法隆寺ー大阪四天王寺
(図:kanikama) |
[古代の三河国はヤマト朝廷に匹敵した]
古代の三河地方には、中央のヤマト政権に匹敵する文化、先進の技術があり、強い指導者がいました。それは、岡崎市に残っている
「北野廃寺」跡が証明しています。
北野廃寺とは、三河・物部氏が創建した巨大な建造物(650年頃)です。聖徳太子が大阪に創建した四天王寺(593年頃)と同じ様式です。そして、北野廃寺の五重塔は、奈良の法隆寺の五重塔(607年頃)に匹敵する規模であったようです。
つまり、聖徳太子が活躍した飛鳥時代、三河には中央政権に匹敵する文化、技術があり、実力者「物部氏」がいたのです。これは驚きです。
岡崎市(三河の中心)には、このような素晴らしい古代史があったのです。
なお、「物部氏」は中央では天皇の軍事力を担う一族だったことでも有名です。
[三河国と尾張国の近い関係]
一般的には、「三河(岡崎市)と尾張(名古屋市)は隣接しているが気質は違う」とよく言われます。確かに三河人は質実剛健で、尾張人は派手で見栄を張る気質とも言われます。言葉も三河は三河弁、尾張は名古屋弁です。しかし最近の名古屋弁の調査報告を読むと、尾張武家屋敷街を中心に三河弁の痕跡が多く混ざり残っているようです。つまり、古くから三河出身者は尾張の中心部で活躍していたことがわかります。
ずいぶんと時代をさかのぼれば、物部氏も尾張氏も祖は同じで「天日明命(別名ニギハヤヒ)」と言われているので、もともと両者は近くて深い関係です。
さて、歴代の天皇が「正当」である証しは
「三種の神器」を持つことがですが、その一つである草薙剣を尾張名古屋の熱田神宮は保管していることから伊勢神宮に次ぐ格式のある神宮と言われています。
この熱田神宮の歴代大宮司も、当初は「尾張氏」でしたが、その後、姻戚関係にあった「三河」出身の藤原氏が引き継いでいきます。
全国的には三河(岡崎市)より尾張(名古屋市)の方が目立ちますが、尾張が栄えてきたのは三河人の貢献が大きかったのかもしれません。
[三河国と丹波国(現在の丹後地方)の近い関係]
古代、天皇の嫡子らが三河や丹波に派遣され、三河と丹波の技術交流が進みました。その結果、優れた産業を興しました。
三河と丹波には共通点が多く残っていることを以前紹介しました。
http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/03/blog-post.html
さらに、伊勢神宮と強いつながりを持つ元伊勢の丹波国・籠神社。この歴代宮司として力を持った「海部氏」は、尾張氏から派生した氏族でした。そして丹波国の複数の遺跡からは東海三河地方の土器が見つかっています。
三河国ー尾張国ー丹波国は多くのヒトとモノの交流があったことがわかります。
[天皇家と三河・尾張・丹波の近い関係]
このように、「三河の物部氏」、「尾張の尾張氏」、「丹波の海部氏」らは血縁的にも物質面でも相互に深い関係がありました。そして多くの天皇妃も提供してきました。また、古代史上で特に有名な「壬申の乱」の勝利に大きく貢献しました。つまり、
天皇家を軍事、物質、婚姻などで支え続けました。天皇家にとってある意味で故郷の実家のような存在であったとも言えます。
従って、古代の天皇家の成立過程において、「三河、尾張、丹波」の3地域の豪族達が与えた影響力はかなり大きかったことは間違いないと思います。
[第41代持統天皇の三河行幸]
持統天皇は、古代の天皇の中でも特に有名な天皇(女帝)です。なぜなら、
①壬申の乱を勝ち抜き、
②天皇家の祖を伊勢神宮の天照大御神として確立させ、
③日本国における天皇の歴史と正当性を堅固なものにすることに成功した。
からです。
興味深いことに、天皇制を軸とした古代国家が確立してくるこの頃から、「東海道」行政区分(伊勢神宮~三河~東方面)の重要性が次第に高くなっていきます。
持統天皇は、生涯で特別な意味を持つ2度の「東海道」への行幸を行っています(伊勢と三河)。
一度目は伊勢神宮を中心とする天皇体制を確立するために伊勢へ。そして、最後の行幸は、「三河」を選びました。死を迎える年でした。体力を振り絞り最後の訪問先を決めます。気になって気になって仕方なかったのでしょう。それほど三河は戦略、物資両面で重要だったとも言えます。
訪問では、尾張はほぼ通過しただけですが、三河には一ヶ月もの長い間滞在し、岡崎市に桜の樹を植え祈りました。この象徴的な出来事が何よりも雄弁に古代・三河の重要性を物語っています。
持統天皇は晩年、自分の子や孫が天皇家を無事維持していくためには「東海道」の行政区分が重要と判断したのでしょう。
そのためには特に「伊勢」と「三河」の協力が不可欠だったのです。
そして持統天皇の見通しは当たります。後年、三河が起点となり鎌倉時代、江戸時代へと日本の歴史は動きます。時代の大きな流れは「西日本〜近畿」から東の「東海道」領に移って行ったのです。
[中世:三河と鎌倉幕府・源頼朝の関係]
天皇家の「三種の神器・草薙剣」を有する尾張・熱田神宮。その大宮司を尾張氏から引き継いだのは、
三河(岡崎)に在住の三河四郎大夫(藤原季兼)の子である藤原季範です。季範は額田(岡崎市)に住んでいたので額田冠者とも呼ばれました。「額田」とは古い地名で、延喜式(平安時代)のころから三河の岡崎市周辺は額田と呼ばれていました。その
額田冠者の孫が源頼朝で鎌倉に幕府を開きます。時代は武士政権へと大きく日本の歴史が動きました。 つまり鎌倉幕府も元をたどれば三河出身者となります。
[近世:徳川家康は三河出身]
戦国時代になり、織田信長→豊臣秀吉→徳川家康が活躍しました。最終的に三河出身の家康が全国を統一し、江戸の街(現代の世界都市・東京)を完成します。信長(尾張出身)と秀吉(尾張出身)は荒々しく、時に過激なやり方で相手をねじ伏せました。それに対し、家康(三河出身)は三河人らしい根気とがまんで天下をとりました。最も日本人らしいやり方で日本の土台を築いたのは家康と言ってもよいでしょう。
ところで最近の某経済誌で、ある歴史学者が「信長や秀吉は日本人に人気があるが、家康は人気がない」という内容のお話を書いてるのを読みました。固定概念の典型的なお話だったので読んで少しがっかりしました。信長や秀吉は、後世の作家が面白く派手に人物像を書きやすいためでしょうか。言わばマスコミによって作られた人気という側面も大きいのです。
では、実際に、当時の多くの日本人庶民が納得し、本当に支持したのは誰だったのか考えてみましょう。答えは家康と思います。
古来、神話の時代から日本人は過激で残忍で派手なリーダーより、和を重んじ根気と我慢、質実剛健のリーダーを好みました。本来の日本人の庶民感覚が家康を支持したからこそ江戸時代は300年間も続いたのでしょう。三人の武将の中で徳川家康が最も本来の日本人らしい性格のリーダーであったと言えます。
現実の信長や秀吉は短期政権でした。派手な反面、本当の庶民の支持が弱かったとも言えます。
さて、徳川と一緒に三河から多くの家臣、技術職人、商人達が江戸に移り住み活躍しました。現在の日本の標準語(東京弁)は三河弁が基本形となり成立したとも言われています。
[日本の歴史を動かし続けた三河]
このように歴史を古代~中世~近世~現代まで大きく俯瞰すると、「古代天皇家の確立時期~鎌倉時代〜江戸時代〜近代の自動車産業」に至るまで、
新しい歴史が動くときにはいつも三河という土台と三河出身者の貢献が根底にあったことがわかります。
もしも三河の粘り強さと頑張りがなかったら、その後の鎌倉時代、江戸時代へと続いた東海道領域の発展はなく、日本の現状は違うものになっていたでしょう。
[まとめ]
三河人の特徴は質実剛健で落ち着いた性格と言われます。京都、名古屋、鎌倉、江戸のような華やかな文化圏と比較すると表向きは目立ちません。
しかし「実務を重んじる粘り強い三河人」の特徴が技術大国日本の土台を築き、日本の歴史を動かし、とりわけ東海道地域の発展に大きく貢献しました。
経済的にも東海道地域の発展が無ければ、日本の発展はなかったのです。東海道の発展は三河が起点となりました。全国を統一した徳川家康が三河・岡崎市で誕生したのは偶然ではなかったのです。三河地方の古代史は、全国的にもっと注目されても良いと思います。