2016年12月30日金曜日

徳川家康だけじゃない(8)岡崎市は地震に強い

今回は愛知県岡崎市の地震に関する話題です。

岡崎市(特に中央から東部、北部)は比較的「地震に強い」場所と言えます。

今から約50年ほど前、まだ子供の頃に、大正生まれのお年寄りから聞いた話です。

「この辺りの土地(=岡崎市)は大地震にも強いんだ。」

「へえ~すごいね。で、どうして地震に強いの?」

「昔から岡崎市の地べたは他よりも固い石からできているからだよ。」

「ふ~ん、なるほど。」

 まるで落語に出て来る与太話のような会話ですが、少し気になったので調べたところ、実は、ほぼ本当のお話でした。

 岡崎市は徳川家康の誕生の地として有名ですが、その他にも優れた特徴が多くあります。 例えば、岡崎市は花崗岩(かこうがん)の名産地で、日本の三大「石都」と言われています。他は二つは茨城県の真壁と香川県の庵治です。

特に岡崎市内の中心部から北~北東方面にかけては、昔から石屋さんが大変多く集まっていました(現在の石工団地は場所を変えています)。

愛知県の岡崎市には古代より非常に多くの花崗岩(御影石とも言います)が地盤に眠っています。岡崎では1,000年以上前から石彫品が売られていたと言われています(日本石材工業新聞HP、日本の名石記事参照)。

http://www.nskonline.jp/stone/hokuriku.html

花崗岩とは、地球の大陸地殻の深部を形成する深層岩として主要な石です。それ故、性質としてはとても硬くて緻密な性格を持っています。

「花崗岩は緻密で硬いことから、日本では古くから石材として使用されてきました。石の鳥居や城の石垣や石橋に用いられるほか、道標や三角点・水準点の標石にも用いられてきたのです。近代の建造物の例としては国会議事堂の外装が全て日本国産の花崗岩で出来ています(wikipediaの説明参照)」。

さて、この地方にも昔から地震はありました。過去には、三重県・愛知県・静岡県を中心とする広い範囲に大被害を与えた1944年の東南海地震、その数ヶ月後の1945年には三河地震が起きています。 

本当に岡崎市は地震に強いのでしょうか? そこで、当時どの程度の被害があったのか被害調査の記録を調べてみました(内閣府、三河地震の災害の概要をHPで参照)。

http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1944-tounankaiJISHIN/pdf/8_chap4.pdf

その結果、とても面白いことがわかったのです。 結論からお話しします。

三河地方全体ではM7レベルの大地震による大きな被害と多数の死者が出ましたが、被害の多くは、三河の南部の西尾市や西部の安城市などが中心でした。

それに比べて、岡崎市はそれらの市に隣接していますが、記録にある死者数、住戸被害率などはほぼ 1/10以下でした。岡崎市でも矢作橋が一部壊れていますが、記録の数字を見る限りでは、実際の住民や住戸への直接の被害は、周辺の市に比べかなり低くかった様子です。

とりわけ、岡崎市の中心から北東にかけての山方向は被害が少なかった。一方で、矢作川など川が近く地盤のゆるい地域に被害が集まったようです。つまり震源地からの距離の問題だけでなく地盤の地質の固さが大きく影響していることがわかります。

独立行政法人 防災科学技術研究所 自然災害情報室のHPを参照

そこで、岡崎市付近の地質図も調べてみました。やはり地震の被害の少なかった三河北部から岡崎市北部、中心部にかけては、山側から花崗岩の地盤が張り出しています。「地質ニュース593号、59-64、2004年1月、岡崎の花崗岩を巡って(仲井豊、鈴木和博)を参照」

https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/04_01_08.pdf


つまり、堅固な花崗岩が張り出している場所は、地震の被害がかなり低かったとも言えます。

「岡崎市は地盤が固く地震に強い」というお話は必ずしも与太話ではなく、昔のお年寄り達の実体験から出たお話だったわけです。

とは言え、これは過去の体験談です。将来も安心という話ではありません。地盤が固くても地震には慢心せず充分気をつけましょう。

2016年4月9日土曜日

徳川家康だけじゃない(7)日本の歴史を動かした三河

古代の三河地方は絹織物や塩など最高品質の物作りをして、朝廷からも一目置かれていたことを以前紹介しました。 http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/02/blog-post_20.html

それから1,500年近く経った現代でも、トヨタが日本の経済力をけん引し、日本の優れた技術と品質は世界中で評価されています。ご承知のように、そのトヨタの前身は三河の織物業です。古代より連綿と続く三河地方の底力。これが世界を制覇したトヨタの根底にあることは間違いありません。「技術大国・日本は一日にして成らず」です。 

しかし、三河の底力は優れた物作りだけではありませんでした。古代より三河は日本の歴史を動かす大きな原動力であり起点でした。とりわけ、kanikamaが注目した「三河ー尾張ー丹波」連合とも言える地域は日本の古代史と天皇に強い影響力を与えてきました。

以下にそのポイントをまとめます。


日本の歴史を動かした「三河国ー尾張国ー丹波国」
上のライン(右から):三河(岡崎)ー尾張(名古屋)ー丹波(京都)
下のライン(右から):伊勢神宮ー奈良法隆寺ー大阪四天王寺
(図:kanikama)

[古代の三河国はヤマト朝廷に匹敵した]
古代の三河地方には、中央のヤマト政権に匹敵する文化、先進の技術があり、強い指導者がいました。それは、岡崎市に残っている「北野廃寺」跡が証明しています。

北野廃寺とは、三河・物部氏が創建した巨大な建造物(650年頃)です。聖徳太子が大阪に創建した四天王寺(593年頃)と同じ様式です。そして、北野廃寺の五重塔は、奈良の法隆寺の五重塔(607年頃)に匹敵する規模であったようです。

つまり、聖徳太子が活躍した飛鳥時代、三河には中央政権に匹敵する文化、技術があり、実力者「物部氏」がいたのです。これは驚きです。

岡崎市(三河の中心)には、このような素晴らしい古代史があったのです。

なお、「物部氏」は中央では天皇の軍事力を担う一族だったことでも有名です。

[三河国と尾張国の近い関係]
一般的には、「三河(岡崎市)と尾張(名古屋市)は隣接しているが気質は違う」とよく言われます。確かに三河人は質実剛健で、尾張人は派手で見栄を張る気質とも言われます。言葉も三河は三河弁、尾張は名古屋弁です。しかし最近の名古屋弁の調査報告を読むと、尾張武家屋敷街を中心に三河弁の痕跡が多く混ざり残っているようです。つまり、古くから三河出身者は尾張の中心部で活躍していたことがわかります。

ずいぶんと時代をさかのぼれば、物部氏も尾張氏も祖は同じで「天日明命(別名ニギハヤヒ)」と言われているので、もともと両者は近くて深い関係です。

さて、歴代の天皇が「正当」である証しは「三種の神器」を持つことがですが、その一つである草薙剣を尾張名古屋の熱田神宮は保管していることから伊勢神宮に次ぐ格式のある神宮と言われています。

この熱田神宮の歴代大宮司も、当初は「尾張氏」でしたが、その後、姻戚関係にあった「三河」出身の藤原氏が引き継いでいきます。

全国的には三河(岡崎市)より尾張(名古屋市)の方が目立ちますが、尾張が栄えてきたのは三河人の貢献が大きかったのかもしれません。


[三河国と丹波国(現在の丹後地方)の近い関係]
古代、天皇の嫡子らが三河や丹波に派遣され、三河と丹波の技術交流が進みました。その結果、優れた産業を興しました。三河と丹波には共通点が多く残っていることを以前紹介しました。
 http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/03/blog-post.html

さらに、伊勢神宮と強いつながりを持つ元伊勢の丹波国・籠神社。この歴代宮司として力を持った「海部氏」は、尾張氏から派生した氏族でした。そして丹波国の複数の遺跡からは東海三河地方の土器が見つかっています。三河国ー尾張国ー丹波国は多くのヒトとモノの交流があったことがわかります。


[天皇家と三河・尾張・丹波の近い関係]
このように、「三河の物部氏」、「尾張の尾張氏」、「丹波の海部氏」らは血縁的にも物質面でも相互に深い関係がありました。そして多くの天皇妃も提供してきました。また、古代史上で特に有名な「壬申の乱」の勝利に大きく貢献しました。つまり、天皇家を軍事、物質、婚姻などで支え続けました。天皇家にとってある意味で故郷の実家のような存在であったとも言えます。

従って、古代の天皇家の成立過程において、「三河、尾張、丹波」の3地域の豪族達が与えた影響力はかなり大きかったことは間違いないと思います。


[第41代持統天皇の三河行幸]
持統天皇は、古代の天皇の中でも特に有名な天皇(女帝)です。なぜなら、
①壬申の乱を勝ち抜き、
②天皇家の祖を伊勢神宮の天照大御神として確立させ、
③日本国における天皇の歴史と正当性を堅固なものにすることに成功した。
からです。

興味深いことに、天皇制を軸とした古代国家が確立してくるこの頃から、「東海道」行政区分(伊勢神宮~三河~東方面)の重要性が次第に高くなっていきます。

持統天皇は、生涯で特別な意味を持つ2度の「東海道」への行幸を行っています(伊勢と三河)。
一度目は伊勢神宮を中心とする天皇体制を確立するために伊勢へ。そして、最後の行幸は、「三河」を選びました。死を迎える年でした。体力を振り絞り最後の訪問先を決めます。気になって気になって仕方なかったのでしょう。それほど三河は戦略、物資両面で重要だったとも言えます。

訪問では、尾張はほぼ通過しただけですが、三河には一ヶ月もの長い間滞在し、岡崎市に桜の樹を植え祈りました。この象徴的な出来事が何よりも雄弁に古代・三河の重要性を物語っています。

持統天皇は晩年、自分の子や孫が天皇家を無事維持していくためには「東海道」の行政区分が重要と判断したのでしょう。 そのためには特に「伊勢」と「三河」の協力が不可欠だったのです。

そして持統天皇の見通しは当たります。後年、三河が起点となり鎌倉時代、江戸時代へと日本の歴史は動きます。時代の大きな流れは「西日本〜近畿」から東の「東海道」領に移って行ったのです。


[中世:三河と鎌倉幕府・源頼朝の関係]
天皇家の「三種の神器・草薙剣」を有する尾張・熱田神宮。その大宮司を尾張氏から引き継いだのは、三河(岡崎)に在住の三河四郎大夫(藤原季兼)の子である藤原季範です。季範は額田(岡崎市)に住んでいたので額田冠者とも呼ばれました。「額田」とは古い地名で、延喜式(平安時代)のころから三河の岡崎市周辺は額田と呼ばれていました。その額田冠者の孫が源頼朝で鎌倉に幕府を開きます。時代は武士政権へと大きく日本の歴史が動きました。 つまり鎌倉幕府も元をたどれば三河出身者となります。


[近世:徳川家康は三河出身]
戦国時代になり、織田信長→豊臣秀吉→徳川家康が活躍しました。最終的に三河出身の家康が全国を統一し、江戸の街(現代の世界都市・東京)を完成します。信長(尾張出身)と秀吉(尾張出身)は荒々しく、時に過激なやり方で相手をねじ伏せました。それに対し、家康(三河出身)は三河人らしい根気とがまんで天下をとりました。最も日本人らしいやり方で日本の土台を築いたのは家康と言ってもよいでしょう。

ところで最近の某経済誌で、ある歴史学者が「信長や秀吉は日本人に人気があるが、家康は人気がない」という内容のお話を書いてるのを読みました。固定概念の典型的なお話だったので読んで少しがっかりしました。信長や秀吉は、後世の作家が面白く派手に人物像を書きやすいためでしょうか。言わばマスコミによって作られた人気という側面も大きいのです。

では、実際に、当時の多くの日本人庶民が納得し、本当に支持したのは誰だったのか考えてみましょう。答えは家康と思います。古来、神話の時代から日本人は過激で残忍で派手なリーダーより、和を重んじ根気と我慢、質実剛健のリーダーを好みました。本来の日本人の庶民感覚が家康を支持したからこそ江戸時代は300年間も続いたのでしょう。三人の武将の中で徳川家康が最も本来の日本人らしい性格のリーダーであったと言えます。

現実の信長や秀吉は短期政権でした。派手な反面、本当の庶民の支持が弱かったとも言えます。

さて、徳川と一緒に三河から多くの家臣、技術職人、商人達が江戸に移り住み活躍しました。現在の日本の標準語(東京弁)は三河弁が基本形となり成立したとも言われています。 


[日本の歴史を動かし続けた三河]
このように歴史を古代~中世~近世~現代まで大きく俯瞰すると、「古代天皇家の確立時期~鎌倉時代〜江戸時代〜近代の自動車産業」に至るまで、新しい歴史が動くときにはいつも三河という土台と三河出身者の貢献が根底にあったことがわかります。 もしも三河の粘り強さと頑張りがなかったら、その後の鎌倉時代、江戸時代へと続いた東海道領域の発展はなく、日本の現状は違うものになっていたでしょう。


[まとめ]
三河人の特徴は質実剛健で落ち着いた性格と言われます。京都、名古屋、鎌倉、江戸のような華やかな文化圏と比較すると表向きは目立ちません。しかし「実務を重んじる粘り強い三河人」の特徴が技術大国日本の土台を築き、日本の歴史を動かし、とりわけ東海道地域の発展に大きく貢献しました。

経済的にも東海道地域の発展が無ければ、日本の発展はなかったのです。東海道の発展は三河が起点となりました。全国を統一した徳川家康が三河・岡崎市で誕生したのは偶然ではなかったのです。三河地方の古代史は、全国的にもっと注目されても良いと思います。

2016年3月19日土曜日

徳川家康だけじゃない(6)岡崎市籠田町の歴史秘話

今から約50年ほど前、昭和30年代の話です。愛知県岡崎市の籠田(篭田)公園のすぐ西側に、今はもうありませんが当時少し風変わりな甘味処の店がありました。

何が風変わりかと言いますと、その店の入口には「女性センター」と書いてあり、実際に女性客専用のお店でした。ある日、まだ小学生低学年だった私は姉と一緒にあんみつを食べようと店に入ると「ここは女性のお店だよ」と断られた記憶があります。思春期以上の男子ならまだしも、なぜ小さい子供でも男は入店禁止なのかとても不思議に思いました。

その後この店のことはすっかり記憶から忘れていました。これからお話しする知られざる籠田町の歴史秘話に出会うまでは。今回は中世から近世に起きた興味深い籠田の物語です。

現在の籠田公園 (写真:goo wikipedia)

「明阿尼僧の物語」

「現在の籠田公園の場所に、鎌倉・南北朝時代の頃より昭和初期の頃まで、尼寺があった。この尼寺を創建した「明阿(みょうあ)尼僧」の物語である。

岡崎市の中央にある籠田公園の辺りは、古い時代は菅生(すごう)郷と呼ばれた。この菅生郷には鎌倉時代から高氏(こうし)(本姓は高階氏)の一族が所有する広い相田があった。相田とは河川の跡に水田を作ったものである。

明阿(みょうあ)は、鎌倉(1185-1333)の末期から南北朝時代(1336-1392)頃を生きた女性で高氏の家系に生まれた。父は優れた武将の高師泰(こうもろやす)。高氏は歴代鎌倉幕府の執事として足利尊氏を支え、強い権力を持っていた。明阿は兄が二人いたが一人娘としてとても大事に育てられた。夫は鎌倉幕府・関東執事の高師冬である。このような華麗な家柄に生まれた明阿は何ひとつ不自由の無い、恵まれた生活を生涯送れるはずであった。

しかし明阿は過酷な運命に翻弄される。世の常として栄華はいつまでも続かない。転機は突如現れた。観応の擾乱(かんのうのじょうらん)(1349-1352)で高氏一族は敵方に惨敗する。

当時、足利尊氏とその弟の足利直義の分裂から全国的な抗争が起こり、それに関連して朝廷も北朝と南朝に分かれての争いが起きていた(南北朝時代)。その一連の抗争の中で、高氏は最終的に敵方に敗れてしまう。和睦をするが、敵方に恨まれた高兄弟と親族達は京都に護送中に全員殺害されてしまったのである(1351年)。

さらにその後、明阿の夫の高師冬も敵方に追い詰められて自害する事件が起きる。
つまり、高氏の一族はほぼ滅亡したことになる。

高一族は長く執事として足利尊氏に仕えてきたが、最後はその尊氏からの助けはなく裏切られる結末を迎える。高氏の悲劇と呼ばれる所以である。

しかしここに娘がひとり生き延びていた。それが「明阿」である。

明阿は自分の身にも危険が迫るなか三河の菅生郷の籠田(現在の愛知県岡崎市篭田町辺り)に身を寄せることになる。ここには高氏一族の相田もあり、「自分を支えてくれる唯一信頼できる場所」と信じたからであった。

記録にはないが、明阿には幼いひとり息子がいた。戦乱の世、後継ぎの可能性を持つ男の幼児がいることを敵方が知れば身の危険を意味する。それ故、諸事情から記録には残されなかったのかもしれない。

高氏の完全失脚を狙う敵からすれば、高氏の血を受け継ぐ子(特に男)はたとえ小さな子供でも残したくない。一人でも残せば後年成長して返り討ちにあうかもしれない。それは過去の多くの歴史が証明しているからである。

明阿は焦っていた。「私はどのような境遇になっても構わない。しかし父の高一族をここで根絶やしにするわけにいかない。」「父も兄も夫も殺害された今、何としても幼い息子を生き延びさせないといけない」。明阿は菅生郷の籠田に住む親しい者に相談をし、ある決断をすることになる。それは、、、

幼い一人息子は密かに親しい知人の家に養子に出して「別姓」にする。その上で、自分は子供のいない未亡人として尼寺を創建し尼僧になり出家する。こうすれば、成長するまで、息子の存在を敵の目から守ることができる。

いずれ機会をみて、亡くなった兄の高師世の家に再度養子縁組をさせる。外部から見れば、「別姓」からの養子縁組。身の危険は少ない。こうして無事成長して養子縁組を果たした子は、後に高師秀(こうもろひで)と名乗ることになる。

この明阿の知恵により、高師泰(父)・師世(兄)の後は師秀(息子)が継承し、高氏の血脈を後世まで保つことに成功したのである。

実際に、1355年、明阿は菅生郷の篭田町に総持尼寺を創建して出家している。この尼寺は昭和2年に籠田町の東に位置する中町に移転されるまで、長い間、籠田総門南の総構え内側に存続したのである。つまり記録が正しければ、籠田の尼寺は500年近くも続いたことになる。

尼寺は当時、使用人も全て女性とし、固く男性の出入りを禁止した。幼児の男の子でさえ厳格に出入りを禁止した。それは明阿の身を守るためでもあるが、自分の息子が母に会いに尼寺を訪れる危険性を避けるためでもあった。高一族の血を守ることに命を懸けた明阿は生涯自分の息子に母として会うことはなかった。」 (終わり) 

物語は以上です。

私は昭和の初期まで愛知県岡崎市籠田町にかくも長きにわたり総持尼寺があった歴史を知り驚きました。時代とともに尼寺の役割も変わり、やがてその役目を終えます。かつての尼僧達や出入りの女性使用人達が、その後の時代をどのように生きたのか今となってはわかりません。

時を経て日本も戦後の時代になります。私は昭和30年代頃まで籠田公園の横にあった不思議な「男性禁止」の甘味店「女性センター」を思い出しました。

誰が何のためにあの店を始めたのでしょうか。ひょっとしてかつての尼寺の関係者でしょうか。それとも、、、想像が膨らみます。今となっては懐かしくて気になるお店です。

(高氏と尼寺の歴史は「岡崎額田の歴史、上巻 郷土出版社1996年」を参考にしました。物語は一部 kanikama の推理も交えて構成しました。)

2016年3月10日木曜日

徳川家康だけじゃない(5)三河と丹後の技術交流

前回、愛知県岡崎と京都府丹後には古代より共通のキーワード「六ー籠ー亀ー伊勢神宮」が残されていることを紹介しました。

http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/02/blog-post_26.html

この不思議な共通項の現象は偶然ではないと思います。実際の歴史でも三河(岡崎)と丹後は古代より深い関係があったからです。その事例を以下に簡単に紹介します。

岡崎(三河)-丹後ー伊勢神宮
古代より岡崎と丹後と伊勢神宮は深い交流がありました。
by Kanikama


1)第9代開化天皇(前158-前98;弥生時代)の頃:
開化天皇の孫である丹波道主命は丹波国に派遣されます。その子である朝廷別王(みかどわけのみこ)は三河に派遣され統治しました。

2)第21代雄略天皇(456-479;古墳時代、大和朝廷)の頃:
丹波から来た菟上足尼命が三河の穂国造に任命されます。菟上足尼命は菟上神社(三河の豊川に近い)の祭神です。また犬頭神社(三河の六名、矢作川に近い)なども創建して、養蚕、機織、犬頭糸、赤引糸など優れた絹製品を有名にしました。

3) 平安時代の頃:
酒人親王(親王なので天皇の嫡子もしくは皇族男子)が三河に派遣され、三河の米と綺麗な水で、いわゆる「清酒」造りに国内で初めて成功し朝廷に献上しています。それ故、酒人親王は酒人神社(三河の六名の近く)の祭神です。一方で、この神社の祭神は、丹波道主の父(日子坐王)という話もあるようです。 興味深いことに、丹波国にも日本酒の伝承が残っているのです。こちらは「初めての日本酒」が造られたという伝承があります。つまり、米から作るお酒の原型が丹波国から三河に伝わり、三河で清酒として優れた製品に発展したと考えると両方の伝承話が合います。

岡崎市の酒人神社の名前は、平安時代の記録『延喜式』に碧海郡六座の一社として記録があるようです。また、酒人親王についてはよくわからないことも多いのですが、「第26代継体天皇(ヤマト王権の古墳時代)の皇子、菟皇子(ウサギノミコ)は、酒人公の祖」という記録があるようです。なお、古代史には酒人内親王という人物も登場します。内親王なので女性ですが、酒人親王と関係が有るのか無いのかよくわかりませんでした。

4)丹波国の古墳群から東海地方の土器が複数発見されています。三河の北側には東海地方最大規模の猿投古窯群があり、また三河湾に近い南側では優れた特徴ある製塩土器が有名です。

5) 余談ですが、古代の丹波国の記録によると、なんと三河村という地名が天橋立より南側の旧丹波国に残されています。縄文前期の遺跡(三河遺跡)、また古墳(三河古墳)が残っています。三河の名前の由来はわかりませんが、岡崎の三河国から移り住んだ人達が暮らしていた地域かもしれません。

古代より、朝廷や時の権力者にとって三河国と丹波国は、物資面、軍事面の両面でとても重要な場所だったと思われます。丹波国からは新しい技術を、そして三河からは優れた製品を得たのでしょう。

天皇は自分たちの子や親族を丹波国や三河国に派遣することによって、両国の技術を交流発展させ、そこから生まれた優れた製品の権利を獲得し、戦略的に拡散しないように囲ったと思われます。その歴史こそが、岡崎(三河)と丹後に残る謎の共通キーワード群の理由かもしれません。私はそう推理しました。


2016年2月20日土曜日

徳川家康だけじゃない (3)「東海道」行政区分

現在、岡崎市から伊勢神宮に行こうとすると陸路を使うため、意外と交通が不便で時間がかかります。しかし、今から約1,500年も昔の古代では少し様子が違ったようです。

岡崎市を中心とする三河地方と伊勢は想像以上に活発に人が往来し、物のやりとりがあったようです。三河と伊勢・鳥羽の間を最短距離で結ぶ海路があったからです。

それゆえ、初期のヤマト王権(紀元前)の時代から既に三河と伊勢は、「東海道」という同じ区分に分類されて統治されていました。中央のヤマトから「東」の諸国に向かう「海の道」で東海道です。

古代の行政区分であった「四道」及び「五畿七道」の区分地図を見ればそれがよくわかります。

下図の「四道」は、初期ヤマト王権の時代に支配が次第に地方に広がって行った頃の行政区画です。この当時はまだ4つの行政区分(四道;東海道、北陸道、丹波道、山陽道)だけでした。第10代・崇神天皇の時に四道将軍と呼ばれる4人がこれらの四道に派遣され統治しました。
四道(図wikipedia)

下図の「五畿七道」は、古代の律令制度が整い始めた頃の行政区画です。第40代・天武天皇(在位673-686)の頃に成立しました。この時代になると支配地域がかなり拡大して本州、四国、九州の全国に広がっています。
五畿七道
(図:国土交通省HP)

どちらの地図からも、当初より岡崎(三河)と伊勢神宮の地は「東海道」と呼ぶ同じ領地区分だったことがわかります。

さて、中央の権力者達は全国から税として各地の特産品を集めます。その中でも、三河からの供物(生糸絹織物、ヒノキ、塩、米など)は品質が優れており、朝廷内でも重宝されたようです。

特に、三河の特産の絹である「犬頭白糸」や「赤引の糸」は有名です。他の地域からの絹織物より品質がはるかに優れていました。色も白く綺麗な犬頭白糸は天皇の衣に、赤引きの糸は神官の衣に使われたそうです。

古代の三河の技術力は本当にすごいですね。既にこの時代には、現代と同様、日本製品の品質はアジア他国を圧倒していた可能性があります。 

「技術立国・日本の底力は一日にして成らず」ですね。

事実、伊勢神宮や朝廷にとって、当時から三河は物質面でも軍事面でも重要な場所でした。そしてこのことは、日本国のその後において非常に重要な意味を持ちます。

なぜならこの三河の基盤が、後の鎌倉幕府成立、及び徳川家康の歴史につながっていくからです。  http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/04/blog-post.html


このような背景を考えると、「岡崎の六並び」の直線が伊勢神宮と結ばれているのはやはり興味深い現象と思われます。

そして次回、この話はさらに「三河と丹波国の深い関係」へと発展していきます。

2016年2月14日日曜日

徳川家康だけじゃない(2)「岡崎の六並び」の不思議

岡崎の魅力は家康だけじゃない。岡崎(三河国)の古代はとても面白い! と気づいたのは、渡辺英治氏の「岡崎の六並び」 http://okazaki6.blogspot.jp/  を読んだことがきっかけでした。

その内容の一部を紹介します。

1)岡崎市内には数字の「六」がつく地名(六名、六美、六地蔵、六供など)が多くあり、それらは直線上に並んでいる。

 2)この「岡崎の六並び」の直線上には「籠田町」、「亀井町」、「稲前神社」も同時に並んでいる。 籠は籠目の「六」であり、亀も亀甲模様の「六」であり、いづれも「六」に因んでいる。

3)古代、岡崎は伊勢神宮の直轄地であり、米を「稲前神社」を介して奉納した伝承がある。 興味深いことに、「岡崎の六並び」の直線の先にはずばり伊勢神宮がある。そして伊勢神宮の石灯籠には六角形の籠目印がある。

(図:「岡崎の六並び」by Eiji Watanabe)
古代の三河と伊勢神宮の間には、「六」が結ぶ何か強い関係と古代人達の想いがあったのではないか?

いや~面白いです。好奇心を強くかき立ててくれます。

そして、私もこの「岡崎の六並び」の現象に興味を持ち、古代の岡崎市の歴史を調べているうちに新らしい発見がありました。

古代、三河国(岡崎市)と京都府丹後(丹波国)と伊勢神宮の関係です。その話は次回。





徳川家康だけじゃない(1) 古代日本の中心地点

皆さんは愛知県岡崎市をご存知でしょうか? 街の中心にシンボルである岡崎城があり、近くを矢作川、菅生川 (乙川) が流れる静かな城下町です。

赤味噌 (豆味噌) の王様とも言える「八丁味噌」が有名です。岡崎の八丁味噌は宮内庁御用達品として皇室に献上されていた歴史があります。そして岡崎市は歴史的には「将軍・徳川家康」が生まれたとして全国的に有名です。

ところが、徳川家康があまりに全国的に有名なため、「岡崎市=徳川家康の生誕地」のイメージだけが強く定着しました。 つまりそれ以外の歴史に関してはほとんど知られていません。岡崎市民ですら「徳川家康」以外の歴史はほとんど知らないのです。 これはとても残念なことです。

岡崎市を中心とする三河地方にはとても興味深い古代からの歴史が眠っています。

このブログでは、徳川家康が岡崎市に生まれるよりも約1,000年近く前の「古代」と呼ばれる時代にさかのぼります。 古代では岡崎市とその周辺は「三河国」と呼ばれてました。

次回から、古代の三河国を中心に、kanikamaが注目した興味深いお話を幾つか紹介します。

今回は、現在の岡崎市(古代の三河国の中心)の場所の確認です。地理的な場所を知ることはとても重要なので地図を載せておきます。

古代の朝廷の支配領域は九州から東北まででした。江戸時代中期頃迄は日本地図は九州~東北間のみ描かれていました。愛知県岡崎市は地理的に古代日本のほぼ中心地点に位置します(図参照)。

細長い日本の国土の場合、その地理的中心にあったのが愛知県です。つまり尾張国(名古屋市)と三河国(岡崎市)の周辺は、諸国の管理や物流、人の往来のために非常に重要な役割を持つ運命にあったのです。



愛知県(赤色)の岡崎市は九州~東北間のほぼ中心地点です。
愛知県岡崎市籠田町を中心に半径約750kmの同心円を描きました。
北端の青森と南端の鹿児島のちょうど中心地に岡崎市が位置します。
(図:wikipediaの地図に円を上書き)
愛知県岡崎市(三河)は古代日本のほぼ中央地点
(図:小学館クリエイティブ)


なお、kanikamaが最もお伝えしたい結論は、「徳川家康だけじゃない(7)」にまとめました。お急ぎの方はそちらもご覧下さい。 http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/04/blog-post.html