岡崎市を中心とする三河地方と伊勢は想像以上に活発に人が往来し、物のやりとりがあったようです。三河と伊勢・鳥羽の間を最短距離で結ぶ海路があったからです。
それゆえ、初期のヤマト王権(紀元前)の時代から既に三河と伊勢は、「東海道」という同じ区分に分類されて統治されていました。中央のヤマトから「東」の諸国に向かう「海の道」で東海道です。
古代の行政区分であった「四道」及び「五畿七道」の区分地図を見ればそれがよくわかります。
下図の「四道」は、初期ヤマト王権の時代に支配が次第に地方に広がって行った頃の行政区画です。この当時はまだ4つの行政区分(四道;東海道、北陸道、丹波道、山陽道)だけでした。第10代・崇神天皇の時に四道将軍と呼ばれる4人がこれらの四道に派遣され統治しました。
四道(図wikipedia) |
下図の「五畿七道」は、古代の律令制度が整い始めた頃の行政区画です。第40代・天武天皇(在位673-686)の頃に成立しました。この時代になると支配地域がかなり拡大して本州、四国、九州の全国に広がっています。
五畿七道 (図:国土交通省HP) |
どちらの地図からも、当初より岡崎(三河)と伊勢神宮の地は「東海道」と呼ぶ同じ領地区分だったことがわかります。
さて、中央の権力者達は全国から税として各地の特産品を集めます。その中でも、三河からの供物(生糸絹織物、ヒノキ、塩、米など)は品質が優れており、朝廷内でも重宝されたようです。
特に、三河の特産の絹である「犬頭白糸」や「赤引の糸」は有名です。他の地域からの絹織物より品質がはるかに優れていました。色も白く綺麗な犬頭白糸は天皇の衣に、赤引きの糸は神官の衣に使われたそうです。
古代の三河の技術力は本当にすごいですね。既にこの時代には、現代と同様、日本製品の品質はアジア他国を圧倒していた可能性があります。
「技術立国・日本の底力は一日にして成らず」ですね。
事実、伊勢神宮や朝廷にとって、当時から三河は物質面でも軍事面でも重要な場所でした。そしてこのことは、日本国のその後において非常に重要な意味を持ちます。
なぜならこの三河の基盤が、後の鎌倉幕府成立、及び徳川家康の歴史につながっていくからです。 http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/04/blog-post.html
このような背景を考えると、「岡崎の六並び」の直線が伊勢神宮と結ばれているのはやはり興味深い現象と思われます。
そして次回、この話はさらに「三河と丹波国の深い関係」へと発展していきます。