2016年2月20日土曜日

徳川家康だけじゃない (3)「東海道」行政区分

現在、岡崎市から伊勢神宮に行こうとすると陸路を使うため、意外と交通が不便で時間がかかります。しかし、今から約1,500年も昔の古代では少し様子が違ったようです。

岡崎市を中心とする三河地方と伊勢は想像以上に活発に人が往来し、物のやりとりがあったようです。三河と伊勢・鳥羽の間を最短距離で結ぶ海路があったからです。

それゆえ、初期のヤマト王権(紀元前)の時代から既に三河と伊勢は、「東海道」という同じ区分に分類されて統治されていました。中央のヤマトから「東」の諸国に向かう「海の道」で東海道です。

古代の行政区分であった「四道」及び「五畿七道」の区分地図を見ればそれがよくわかります。

下図の「四道」は、初期ヤマト王権の時代に支配が次第に地方に広がって行った頃の行政区画です。この当時はまだ4つの行政区分(四道;東海道、北陸道、丹波道、山陽道)だけでした。第10代・崇神天皇の時に四道将軍と呼ばれる4人がこれらの四道に派遣され統治しました。
四道(図wikipedia)

下図の「五畿七道」は、古代の律令制度が整い始めた頃の行政区画です。第40代・天武天皇(在位673-686)の頃に成立しました。この時代になると支配地域がかなり拡大して本州、四国、九州の全国に広がっています。
五畿七道
(図:国土交通省HP)

どちらの地図からも、当初より岡崎(三河)と伊勢神宮の地は「東海道」と呼ぶ同じ領地区分だったことがわかります。

さて、中央の権力者達は全国から税として各地の特産品を集めます。その中でも、三河からの供物(生糸絹織物、ヒノキ、塩、米など)は品質が優れており、朝廷内でも重宝されたようです。

特に、三河の特産の絹である「犬頭白糸」や「赤引の糸」は有名です。他の地域からの絹織物より品質がはるかに優れていました。色も白く綺麗な犬頭白糸は天皇の衣に、赤引きの糸は神官の衣に使われたそうです。

古代の三河の技術力は本当にすごいですね。既にこの時代には、現代と同様、日本製品の品質はアジア他国を圧倒していた可能性があります。 

「技術立国・日本の底力は一日にして成らず」ですね。

事実、伊勢神宮や朝廷にとって、当時から三河は物質面でも軍事面でも重要な場所でした。そしてこのことは、日本国のその後において非常に重要な意味を持ちます。

なぜならこの三河の基盤が、後の鎌倉幕府成立、及び徳川家康の歴史につながっていくからです。  http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/04/blog-post.html


このような背景を考えると、「岡崎の六並び」の直線が伊勢神宮と結ばれているのはやはり興味深い現象と思われます。

そして次回、この話はさらに「三河と丹波国の深い関係」へと発展していきます。

2016年2月14日日曜日

徳川家康だけじゃない(2)「岡崎の六並び」の不思議

岡崎の魅力は家康だけじゃない。岡崎(三河国)の古代はとても面白い! と気づいたのは、渡辺英治氏の「岡崎の六並び」 http://okazaki6.blogspot.jp/  を読んだことがきっかけでした。

その内容の一部を紹介します。

1)岡崎市内には数字の「六」がつく地名(六名、六美、六地蔵、六供など)が多くあり、それらは直線上に並んでいる。

 2)この「岡崎の六並び」の直線上には「籠田町」、「亀井町」、「稲前神社」も同時に並んでいる。 籠は籠目の「六」であり、亀も亀甲模様の「六」であり、いづれも「六」に因んでいる。

3)古代、岡崎は伊勢神宮の直轄地であり、米を「稲前神社」を介して奉納した伝承がある。 興味深いことに、「岡崎の六並び」の直線の先にはずばり伊勢神宮がある。そして伊勢神宮の石灯籠には六角形の籠目印がある。

(図:「岡崎の六並び」by Eiji Watanabe)
古代の三河と伊勢神宮の間には、「六」が結ぶ何か強い関係と古代人達の想いがあったのではないか?

いや~面白いです。好奇心を強くかき立ててくれます。

そして、私もこの「岡崎の六並び」の現象に興味を持ち、古代の岡崎市の歴史を調べているうちに新らしい発見がありました。

古代、三河国(岡崎市)と京都府丹後(丹波国)と伊勢神宮の関係です。その話は次回。





徳川家康だけじゃない(1) 古代日本の中心地点

皆さんは愛知県岡崎市をご存知でしょうか? 街の中心にシンボルである岡崎城があり、近くを矢作川、菅生川 (乙川) が流れる静かな城下町です。

赤味噌 (豆味噌) の王様とも言える「八丁味噌」が有名です。岡崎の八丁味噌は宮内庁御用達品として皇室に献上されていた歴史があります。そして岡崎市は歴史的には「将軍・徳川家康」が生まれたとして全国的に有名です。

ところが、徳川家康があまりに全国的に有名なため、「岡崎市=徳川家康の生誕地」のイメージだけが強く定着しました。 つまりそれ以外の歴史に関してはほとんど知られていません。岡崎市民ですら「徳川家康」以外の歴史はほとんど知らないのです。 これはとても残念なことです。

岡崎市を中心とする三河地方にはとても興味深い古代からの歴史が眠っています。

このブログでは、徳川家康が岡崎市に生まれるよりも約1,000年近く前の「古代」と呼ばれる時代にさかのぼります。 古代では岡崎市とその周辺は「三河国」と呼ばれてました。

次回から、古代の三河国を中心に、kanikamaが注目した興味深いお話を幾つか紹介します。

今回は、現在の岡崎市(古代の三河国の中心)の場所の確認です。地理的な場所を知ることはとても重要なので地図を載せておきます。

古代の朝廷の支配領域は九州から東北まででした。江戸時代中期頃迄は日本地図は九州~東北間のみ描かれていました。愛知県岡崎市は地理的に古代日本のほぼ中心地点に位置します(図参照)。

細長い日本の国土の場合、その地理的中心にあったのが愛知県です。つまり尾張国(名古屋市)と三河国(岡崎市)の周辺は、諸国の管理や物流、人の往来のために非常に重要な役割を持つ運命にあったのです。



愛知県(赤色)の岡崎市は九州~東北間のほぼ中心地点です。
愛知県岡崎市籠田町を中心に半径約750kmの同心円を描きました。
北端の青森と南端の鹿児島のちょうど中心地に岡崎市が位置します。
(図:wikipediaの地図に円を上書き)
愛知県岡崎市(三河)は古代日本のほぼ中央地点
(図:小学館クリエイティブ)


なお、kanikamaが最もお伝えしたい結論は、「徳川家康だけじゃない(7)」にまとめました。お急ぎの方はそちらもご覧下さい。 http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2016/04/blog-post.html