2015年9月8日火曜日

龍の道と古道(8)古道の役割と特徴

古道については、中根洋司氏らの論文を参考にしました。インターネット検索でも論文内容が読めます。

1)「古道の災害時活用に関する一考察(土木史研究講演集)」(2008)。
2)「秋葉古道の成立過程と果してきた役割の研究(土木学会論文集)」(2012)。

論文の中から、「竜の道」を推理する上でとても参考になった箇所を紹介します。

1)古道には、様々な往来目的があった。(戦乱時の移動に使用、塩の道、信仰の道、狩猟・生活の道、文化や情報の伝達の道、等)


図と写真(新城ふるさと倶楽部HP)
2)中世以前の古い古道ほど高い尾根の道を通る。時代と共に次第に山の中腹や低地の低いルートが使われるようになった。




写真(新城ふるさと倶楽部HP)

3)古代からの古道は、地形にもよるが、目的地まで上り下りをいとわず地図上の最短距離の直線ルートを選んでいる。

全く目からうろこの大変興味深い研究報告ですね。

地図上での直線コースを行くなんて、現代の車主体の道路環境ではとても出来ない方法ですが、古代ではそれが可能だったのです。古代人の知恵と脚力はすご過ぎます。これで、「竜の道」が直線である説明も出来るわけです。

加えて、あえて高く険しい尾根の道を選んでいたのは、ちゃんとそうする意味があったのです。

理由
①見通しが良く敵や獣に対して有利。
②低地より乾いていて足場が良かった。川の横断を避けられる。
③崖の下を通らないので落石の危険を避けれる等々。

なるほど、納得です。脚力さえあれば高地を移動する方がメリットが多かったわけです。こうして、古代人は、京から東国へ、諏訪や北陸へ、東北へと最短距離を使って素早く往来していたのです。全く驚きです。

推理をまとめます。琵琶湖の東にある「竜の道」の東西直線ルートは、古代人が最短距離で移動する古道ルート(塩の道、戦の道などに使われた)のひとつであり、または道しるべであったというのが私の現時点での仮説です。

龍の道と古道(7)古道は最短距離の直線

琵琶湖の東に竜と名のつく地名が東西に一直線に並ぶことを(1)で報告しました。略して「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインです。
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「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ライン by Kanikama

今回はこの不思議な現象を推理してみます。

先ずは「自然現象由来説」が考えられます。地震学の専門家の話では、「まだ確認出来ていない国内の地殻断層はたくさんある」ようです。従って、この東西の「竜の道」に沿って、まだ知られていない地殻の断層とか、地下水脈、鉱脈とか、地質磁場変化等が将来見つかっても不思議ではありません。地震が発生しやすい地殻断層に沿って、古来より龍の名前の付く地名が多いという説もあります。

さて、もうひとつ全く別の観点からも考えてみましょう。「歴史的な人為的な要因で龍の地名が生まれて残った」説です。古代の様々な事件、生活様式、交通路等の背景がいろいろと重なって、長い間かけて人為的に生まれそして今に「竜の道」が残ったという考え方です。

人為的な理由の場合、kanikamaの推理ですが、古代の日本人が利用してきた古道(現代の交通路とは異なる古代の道)と深い関係があると考えています。

古道は、塩を運ぶ道、文化伝達の道、戦乱時に密かに兵士移動をする道などの目的で、東西南北の往来に使われてきました。そして古道の大きな特徴のひとつが、前述したように、出発地と目的地を最短の直線で結ぶ路だったのです。

更に「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインの付近には幾つもの古道が絡み合っていました。つまり、竜の道は地元の細かい小古道につながる大古道であったのです

下の図は、現在知られている古道である「塩の道」のひとつです。南北の道です。そして、面白いことに「竜の道」と同様にほぼ一直線に並ぶ道です。やはり、古代の人達は、地図上で一直線、つまり最短距離を移動したことがわかります。

そして、東西の「竜の道」と南北の「塩の道」は、竜頭山(秋葉山)で交差しています。なんと、竜頭山は東西南北交通の十字路交差点だったのです。


「塩の道」
国土交通省関東地方整備局HP
正確な地図のなかった古代、いろいろな理由(戦乱時、塩や物資、情報の伝達等)で東西を最短距離で移動したい目的がある場合、先人たちの知恵で龍の名前が付く地名を道しるべとした。もしくは結果として道しるべとして地名を付けた。「竜」のつく地名や山を目印とし、京から東国に、また東国から京に、素早く移動したのでないでしょうか。

つまり、「竜王ー竜神ー竜頭ー竜爪」の東西直線ラインは、今まで知られていなかった東西を最短で結ぶ直線的ルートの古道のひとつであり、同時に道しるべだったのではないかと思われます。

最短ルートを結ぶことが出来る直線の古道ルート。その古道に関する興味深い最近の調査研究と文献について、次回、ご紹介します。

2015年9月6日日曜日

龍の道と古道(6)竜爪山と浜名湖の伝説

竜の道「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインの一番東は、竜爪山(りゅうそうざん)です。
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竜爪山(りゅうそうざん)は、縄文・弥生時代から人が住み、「神の山」と尊敬を集めていました。
従って、竜爪山付近の伝説や民話はかなり多く残っています。松永広雄氏編集の「竜爪南嶺物語」にもわかりやすくまとめてあります。

その中の面白い話を紹介します。「考霊天皇5年(西暦299年)、空や地面が動き、富士山が現れ、その反対にくぼんだ場所が琵琶湖となった。同じ日、同じように竜爪山が現れ、その反対にくぼんだ場所が浜名湖となった。」 

富士山と琵琶湖は全国的にとても有名な場所です。浜名湖もすごく有名です。
残念ながら、竜爪山は全国的にはあまり知られていません。

この面白い昔話がもっと全国に広がり、竜爪山も有名になって欲しいですね。


さて、竜爪山の山頂付近には穂積神社があります。この地に逃れた武田軍の残党により祀られました。鉄砲祭りに隠れて密かに鉄砲の練習をした逸話もあります。また、弾除けのご利益があるとされ、山奥にもかかわらず、戦時中は全国から多くの参拝者で昼夜賑わったそうです。

龍爪山全景(静岡市立図書館 西島牧野氏図版)

竜爪権現神

鉄砲祭り(竜爪山の歴史HP参照)


竜爪山付近には古代より幾つもの古道があり、東西地区や南北地区を結んで、生活にも、参拝者たちの往来にも使われていました。

次回、「竜の道」の意味を推理してみます。

2015年9月4日金曜日

龍の道と古道(5)二つの竜頭山

今回は、「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインの竜頭について説明します。
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愛知県と静岡県の二つの県にそれぞれ別の竜頭山があり、東西に並んでいます。西には愛知県新城市の竜頭山(りゅうずさん)。東には静岡県天竜市の竜頭山(りゅうとうさん)です。

左:竜頭山、右:竜のオブジェ(新城観光協会)

新城市の竜頭山には次の昔話があります。

「大昔、竜頭山に住んでいた竜は真冬でも岩の上にいました。ある男が寒中に山に登っていくと、竜は凍傷で腫れ皮膚も破けてぶるぶる震えていました。男が「やせ我慢はやめて南の暖かい国に行くのが利口だよ」と言いました。竜は「そうだな」とうなずいて雲に乗って南に飛んでいきました。」

ずいぶん人間的な竜のお話で興味深いですね。これは、大昔、戦に破れて身を隠していた人達の実話かもしれません。

一方、東の天竜市にある竜頭山とはどんな場所でしょうか。仏教が入ってくる前からある日本古来の土着信仰(自然崇拝)が続いた場所です。原始的な山岳信仰(精霊信仰)が根付いています。

安藤広重 本朝名所 遠州秋葉山
実は、この竜頭山のすぐ南には有名な秋葉山があります。秋葉山は古くから秋葉山信仰=「火の神(防災・防火)」として全国に知られてます。そして、古代、秋葉神社の神体山(奥の院)が竜頭山でした。つまり竜頭山こそが、秋葉山の古代信仰のご本山といえます。

大変興味深いことに、こんな山奥なのに、古代より人の往来がかなりあったようなのです。実際、江戸時代の頃でも北は奥州(東北)、南は薩摩(九州)から、全国から参拝者があったようです。

驚くことに人々は険しい山の峰の古道を往来したのです。多くの古道がこの辺りで今も確認できるようです。

「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインの意味が少しずつ見えてきました。人里から険しい山の峰に続く古代の道、古道が「竜の道」の謎を解くキーワードかもしれません。 続く。

2015年9月3日木曜日

龍の道と古道(4)竜神町の昔話

龍の道をさらに東へ移動しましょう。
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今回は、「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインのほぼ真ん中に位置する愛知県豊田市の竜神町です。東名高速の豊田IC近くに位置する町です。

また、竜神町のすぐ東側に竜宮町と竜宮橋という名前も見られます。

豊田市観光協会の資料

竜神町について良く知らない方は多いと思います。私も地図を見て初めて知りました。そんな訳で、集められた情報はまだ少しです。

現時点で唯一入手出来た情報は、竜神交流館の館長さんに問い合わせて教えて頂いた昔話です。

「その昔この地に細長い池がありました。人々がこの地の開墾を始めたある日、突然黒雲が湧き上がり、見る間に池を包み、水を巻きあげ大きな竜巻となり、西から東へ大変な速さで飛んでいき、その姿はまさに天に昇る竜であったというのです。人々は池の主の竜が開墾の鍬音に驚き天に昇っていったと言い以来竜神様としてあがめ敬ったといいます。」

この付近には、まだあまり世に知られていない古代の情報が眠っているかもしれません。

しばらく調査を継続し、何かわかりましたら後で追記します

2015年9月2日水曜日

龍の道と古道(3)竜王町は東国への入口

琵琶湖の東に一直線に並ぶ「竜神ー龍王ー竜頭ー龍爪」ライン。
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今回は、「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインの西から2番目の竜王町についてお話します。

三上山(滋賀県)の東に竜王町(滋賀県)があります。竜王町は歴史的に大変古くから栄えた場所のようです。

竜王町には竜王山があり、西の竜王山(鏡山)と東の竜王山(雪野山)があります。二つの山には竜の支配者「竜王」が住んでいたと古い言い伝えにあります。

また、西の竜王山(鏡山)は古今集の中で多くの歌人が詠った場所です。東の竜王山(雪野山)も藤原定家、和泉式部、柿本人麻呂らが歌を詠み、また、美女と大蛇の伝説があります。

加えて気になるのは、日本歴史上大変重要な「壬申の乱」で勝利する大海人皇子と、額田王(女性)の二人がここで、恋歌を交換していることです。

大海人皇子と額田王
このように竜王町は古代から京の都にとっても大変身近で、しかも重要な場所だったことがわかります。

さらに、「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインの謎解きをする上で、大変参考になる情報がありました。この竜王町が古くから東西地域を結ぶ大変重要な場所だったという事実です。

「鏡山付近は平安~鎌倉時代にかけて東国路の要塞であった。往来でかなりの賑わいだった。(竜王町の資料)」 

つまり、京から東国に行く場合は、多くはこの竜王町を通過点としたと考えて良いでしょう。

実際、歴史上有名な源義経も鞍馬山で修行をしたのち、京から東北の平泉に下る途中、この竜王町の鏡の宿に泊っています。その後、義経は竜王町から東の尾張(名古屋)に向いました。なお元服を、竜王町の鏡山で行った説と尾張で行った2説が残っています。

源義経(奥)と武蔵坊弁慶
月岡芳年作
 以上の情報から、「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインは、京ー琵琶湖から東国(尾張・三河・駿 河)を結ぶ古代の重要な道であった可能性も出てきました。推理は次回に続く。

2015年9月1日火曜日

龍の道と古道(2)琵琶湖の龍神と三上山の伝説

前回、琵琶湖から東方向に向かって「竜の道」が一直線に並ぶことを書きました。
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「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ライン by Kanikama

図の左側から、三上山の龍神(滋賀県)-竜王町(滋賀県)-竜王山(滋賀県)-竜ヶ岳(滋賀県)-竜神町(愛知県)-竜頭山(愛知県)-竜頭山(静岡県)-竜爪山(静岡県)。

略して、「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインです。

それぞれの地には古い昔より興味深い伝説が残っています。そこで、西から東へ順番にご紹介したいと思います。

先ずは、琵琶湖を望む三上山。竜の名はついていませんが、ここにはとても有名な琵琶湖の竜神に関する伝説があります。「俵藤田のムカデ退治」です。

「琵琶湖の瀬田の唐橋で大蛇(琵琶湖の竜宮城に住む竜神)が橋をふさぐ。それを知った田原藤田は、果敢に竜神に挑み見事その橋を渡ることに成功した。竜神は田原藤田を真の勇者と認めて依頼する。三上山を七巻半している大ムカデがいて皆が困っています。どうかあなたの力で退治してください。そして田原藤田は大ムカデを無事退治し、喜んだ竜神から米俵などお礼をたくさんむらった。だから、その後は苗字の田原が俵となり、俵藤田と言われるようになった。」

この伝説は歴史上の事件を伝えている可能性が高いです。事実、この近江地方は、古代より天皇の斎田地(天皇が即位する時の新米を収穫する場所)として何度も選ばれています。つまり時の天皇が三上山付近に居た反乱者たちを沈静し、その功労者に米俵などを与えたと思われます。

琵琶湖に住む竜神の伝説から始まる「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ライン。

次回は竜王町です。

なお、結論をお急ぎの方は、「龍の道と古道(7)古道は最短距離の直線」をご覧ください。龍の路が並ぶ理由を考察しました。https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/09/blog-post_8.html

2015年8月31日月曜日

龍の道と古道(1)琵琶湖の東に龍の道

龍(竜)の付く地名は全国に幾つもあります。特に、日本の地層の割れ目がある中央構造線~フォッサマグナ地帯にかけての緩やかな曲線に沿って、竜の付く地名が比較的多く見つかることは有名です。


しかし今回、地図を良く見ていたら、それとは別に、琵琶湖から東方向にまっすぐに並ぶ新しい「竜の道」を発見しました。



「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ライン by Kanikama

図の左から、三上山(滋賀県)-竜王町(滋賀県)-竜王山(滋賀県)-竜ヶ岳(滋賀県)-竜神町(愛知県)-竜頭山(愛知県)-竜頭山(静岡県)-竜爪山(静岡県)です。東西に一直線に並んでいました。

三上山には琵琶湖の竜神の有名な伝説があるので、八箇所も「竜」が東西に一直線に並んでいることになります。これだけ並ぶのは珍しく壮観です。

略して、「竜神ー竜王ー竜頭ー竜爪」ラインと呼びたいと思います。

たまたま偶然に重なった現象かもしれません。しかしどうしてこうなったのか、その謎を考ることはとても面白いと思います。

何か地理的な意味(自然現象)が土台にあるのか、または幾つかの歴史上の出来事が背景にあるのか等、しばらくいろいろと推理を楽しんでみたいと思います。

次回に続く。




2015年8月28日金曜日

理系の元祖「日置族」(13)日置族の文献

古代・日置族について、より詳しく知りたい方は、以下の文献をお勧めします。

1)古代日本人の信仰と祭祀(大和書房):太陽祭祀と古代氏族ー日置部を中心としてー(井上辰夫著)。



2)古代人の思考の基礎:「折口信夫全集3」(中央公論社)。

3)古代王権と宗教的部民:井上辰夫博士論文・要旨(筑波大学)

4)古代日本の暦に就て(7) 「天界 20(233):324-326(1940)」(京都大学)

5)古代日本の暦に就て(8) 「天界 20(234):368-370(1940)」(京都大学) 

なお、2)3)4)5)の文献はネット検索からも内容を見ることが出来ます。

2015年8月27日木曜日

理系の元祖「日置族」(12)日本人は理系民族

古代日本において、「伊勢」は太陽(日)の出づる所。「出雲」は太陽(日)の沈む所です。この太陽の道に沿って 伊勢にも出雲にも「日置」の地名や足跡が多く残されています。

太陽暦、測量などの高い技術を有し、日暦(太陽暦)を扱っていたとされる日置族。今も地名や、神社名、皇室の行事などに名前を残す「日置」。

冬至の日の出 伊勢神宮

また、日置の郷では製鉄や古墳技術も扱っていたことがわかっています。

さて、古代の理系・技術集団であった日置族の子孫たちは、古代のみならず、中世、近世、明治維新でも活躍したようですが、なぜそのようなことが可能だったのか考えてみましょう。

その理由は、彼らの特徴が理系の氏族だったからでしょう。日置族は政治や歴史の表舞台には出てきません。しかしそれが幸いしました。

時代が変わっても、権力者が代わっても、理系技術と理系の思想は、時に学問に、時に武術に必要とされたのでしょう。

稲作にも絹の養蚕技術にも理系技術が必要です。そうして、各地の有力氏族との縁組を介して、そこで別の氏名となり、それぞれの氏族の中興の祖となり活躍したのではないでしょうか。

だから、現代も氏名は違っていても、日置族の理系DNAを引き継いだ末裔たちは日本に多くいて別姓で活躍していることでしょう。このブログを読んでいる貴方も日置族の末裔かもしれません。 

ご承知のように、日本はアジアの中では、なぜか理系がダントツに強いです。2013年1月時点の統計でも、科学系ノーベル賞受賞者は15人で、アジア地区ではぶっちぎりの1位です。2位イスラエル(4人)、3位台湾(2人)、4位インド、パキスタン(各1人)。その他、中国と韓国等は0人です。

(追記: 2016年10月3日時点で、日本人のノーベル受賞者は計25人に増えてます。その中で、文学賞(川端康成、大江健三郎)、平和賞(佐藤栄作)以外の22名は全て科学系の受賞です。つまり日本人のノーベル賞受賞者の約9割が理系です。やはり日本人は理系民族と言えますね。)

なぜ、日本人は同じアジア人の中でもこれほど理系が強いのでしょうか?単純に経済力の差だけではないようです。充分な経済力があり、今や米国への留学生数は日本より断然多い中国・韓国には残念ながら理系の受賞者はほとんどいません。

つまり、ノーベル賞級の高い科学や技術のレベルは、長い歴史の積み重ねが必要です。日本人には古代より、稲作でも絹織物でも土器でも高い品質を追い求める特性があります。
長年の積み重ねが大切で、まさしく「技術大国日本は一日にして成らず」です。

日本人は現代でも、海外との交渉や、目立つ表舞台での活躍、駆け引き等は苦手です。

しかし誠実な性格で、細かい観察が得意です。高い技術やモノに喜びを感じます。

裏返して言えば、駆け引き交渉が苦手、大局観が苦手、こだわりすぎる傾向、とも言えます。これらの特徴が、大陸アジア人や半島アジア人との決定的な違いと言えます。

現代でも「物づくり日本」は、科学技術が得意な理系民族なのです。

そして、それは古代の日置族が持っていた特徴と重なります。
日置族は「技術立国・日本」「理系大国・日本」の元祖でした。

リオのオリンピックでも証明されたように、スポーツの分野でも同じです。パワーよりも技の美しさと完成度、そして技術を大切にします。日本人は文化、生活、スポーツどの分野でも理系のDNAを持つ民族と言えます。文学の分野でも、日本人作家は細かい描写を丹念に観察して描写するのが得意です。

このブログをお読みの皆さんも、現在は別の氏名でも、専門分野は別の文系、経済、スポーツ系でも、古代日置族のDNAを受け継いでいる、日置族の末裔かもしれません。

次回は、より日置族を知りたい方のために、参考図書、文献のリストを紹介します。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_28.html

2015年8月26日水曜日

理系の元祖「日置族」(11)織田信長と日置神社

日本全国に日置神社はいくつかあります。それぞれ興味深い由来があると思われますが、ここでは尾張・名古屋の日置神社を紹介します。

正確な創立年は不明ですが、平安時代に編纂された延喜式(905年~)に記載されている「尾張国愛智郡日置神社」にあたるので、かなり古くからある由緒ある神社です。神社名は暦を司る日置部に由来します。

名古屋市の日置神社(神社探訪HP写真)
永禄3年5月、織田信長が桶狭間の戦いへ出陣の折、日置神社へ祈誓しました。織田信長は桶狭間の戦いで勝利し、そのお礼に松樹千本を植えました。これより、「千本松日置八幡宮」とも呼ばれています。

桶狭間の戦いの時、圧倒的多数の今川義元の軍に対して、織田信長軍は少数。それまで尾張を拠点としてきた織田家は実際、滅亡の危機でした。

この命運をかけた戦いの前に日置神社に祈願に立ち寄ったということは、単に進軍の時間稼ぎが目的だったとは思えません。日置神社は織田家の祖先と何らかの関係があり先祖に勝利を誓ったか、もしくは信長が頼りにした戦の神に祈願をしたのではと推測します。

戦の神と言えば、全国4万社あると言われる八幡神社の祭神である応神天皇です。武運の神である応神天皇は日置族の祖でした。
http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_90.html

なお、戦国時代を代表する弓道の流派となった日置流・印西派の創始者である吉田重氏の子孫達は、織田信長や織田信雄に仕えています。

さらに、近畿のみならず、名古屋にも平安時代から日置荘という荘園があり、日置族の拠点のひとつでした。また名古屋には昔、日置城もありました。日置城の城主は織田寛定もしくは織田忠寛でした。

まとめます。織田家の拠点である尾張には古くから日置荘がありました。尾張日置城の城主は織田家でした。さらに織田家は戦国時代日置流弓術を採用して戦を行いました。織田信長は桶狭間の決戦前に日置神社で戦勝祈願を行い、勝利後に千本松を贈りました。

このように日置と織田の関連は幾つも出てきます。もしかしたら、織田信長の祖先も日置族とどこかでつながっているのかもしれません。

次回は、まとめです。現代の理系・日本の源流はすでに古代からありました。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_27.html




理系の元祖「日置族」(10)長州、薩摩の祖は日置族


古代時代では、日暦や測量技術などで活躍した日置族ですが、その後の時代(中世~近代)ではどうなったのでしょうか? 

彼らは、時に天皇から別姓を賜り(日置族について(8)参照)、また他の有力氏族との婚姻関係を持ったりしながら活躍します。

こうして子孫たちは日置の姓とは異なる氏名で様々な氏族の祖ともなっていきます。

例えば、以下のことから、長州や薩摩は古代・日置の末裔であることがわかっています。 

1) 長州藩の毛利氏は、山城国(現在の京都)の日置族・大江氏の子孫。 2) 薩摩藩の主家、祖・島津忠久は武蔵国(現在の関東府中)の日置族・比企禅尼の孫。

祖・島津忠久: 平安末期~鎌倉末期

つまり、武家社会の時代から明治維新まで、社会を変革する原動力となった長州や薩摩はともに、古代・日置族の末裔でした。

日置族は主に技術系実務を基盤とした理系氏族だったので、政治の表舞台や歴史教科書には名前は出てきません。しかしそれがかえって良かったのかもしれません。

 なお、室町時代・中世の頃から伝わる伝統的な弓道武術にも「日置」が出てきます。小笠原流は形式美の流派ですが、それに対し実践的な和弓の代表流派が「日置流」です。

応仁の乱など戦国時代で活躍し、弓道の主流となりました。日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)が創始者と言われています。ここでは割愛しますが、いろいろ不思議な伝説が残っていますのでご興味のある方はどうぞ調べてみてください。

次回は、日置神社と織田信長の関係をお話しします。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_12.html


日置弾正政次(wikipedia図)ji

2015年8月25日火曜日

理系の元祖「日置族」(9)日置族は出雲に派遣された

日置族は出雲と深い関係があります。
出雲大社神楽殿HPより写真

出雲大社復元図(張仁誠氏復元、大林組)

日置族は中央政権ヤマトから出雲に派遣され、大領として出雲地方を統治したと記録が残っています。 

日置族は出雲出身との記述を時々見ますが、もともとは近畿・京都の日置族が出雲に派遣されて、その後出雲にも基盤を置いて発展したと思われます。

出雲の神を支配下に置くために、天上(大和政権)から降りてきた神 「天穂日命(アメノホヒノミコト)」の子孫として、日置族は出雲で高い位を持つようになりました。 「天穂日命(アメノホヒノミコト)」は、天照大神の第2子です。

神話で言えば、日置族の祖先は天津国系の神ですが、国津国にも派遣されて活躍したので、その後、子孫達は両方で地盤を築いたと思われます。

現在でも、日置という地名や姓を持つ人たちは、近畿地方、中部地方が中心ですが、西日本にも多く残っているのは出雲派遣があったからと思われます。


次回は、中世、近代を生きたの日置族の子孫たちのお話です。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_26.html

理系の元祖「日置族」(8)祖先は天照大神および応神天皇

日置族は天照大御神および応神天皇の子孫となります。

 古事記、日本書紀に以下の記述があります。(日置族ファンクラブHP、wikipedia参照)

1) 「紀伊の日置首(ヒオキ・オビト)」は、天照大御神の第2子である 「天穂日命(アメノホヒノミコト)」の子孫。

天照大御神(アマテラス・オオミノカミ)
「斎庭の稲穂」 今野可啓画
2) 「京師の日置臣(ヒオキ・オミ)」は、「菅原朝臣(スガワラアソン)」の姓を天皇から与えられた。菅原氏は天穂日命の子孫で、大江氏と並んで子孫は代々、紀伝道(文章道)を家業として朝廷に仕えた。 

3) 「日置部の伴造(トモノミヤツコ)である幣岐君(ヘキノキミ)」は応神天皇の子である「大山守命」の子孫。

第15代天皇 応神帝御影
(河内国誉田八幡宮蔵)

従って、日本各地に住む日置族は、各々出身・由来、身分などが異なると思われますが、紀伊や京都の日置族は、天照大御神もしくは応神天皇の子孫であることがわかります。

なお、琵琶湖の北東部、近江国伊香郡の天比比岐命神社(滋賀県長浜市高月町高野)には、日置部の祖神は天太玉命(あめふとだまのみこと)と記載があるようです(「神社の世紀」参照)

天太玉命(あめふとだまのみこと)は、岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を外にさそいだすため、天児屋命(あめのこやねのみこと)と祈祷(きとう)をおこなった神です。天孫降臨の際、一緒に付き添った一神でもあります。このことから、日置族の祖先は天孫系でり、出雲系ではないと思われます。


次回(9)では日置族と出雲の関係をまとめます。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_7.html

理系の元祖「日置族」(7)浦島太郎と300年

日本の有名な昔話「浦島太郎」の伝説にも「日置」が登場します。

「丹後国風土記逸文」(713~)によると、浦島太郎が海で五色の亀と会うのが天の橋立に近い日置の里、つまり現在の京都府宮津市日置です。

浦島太郎は 龍宮城に行き歓待を受けますが、ふるさとに戻った時に乙姫様からもらった玉手箱を開けると、その煙によって約300年の時間が進んでしまいます。時間(暦)に関するとても不思議な昔話です。

浦島太郎記念切手
この物語が、日暦を扱う日置族の里で起きていることからも、実際に起こった歴史上の出来事がこの物語に封じ込められている可能性があります。

浦島太郎の物語にはどのような意味が込められているのでしょうか。
いくつかの説が出ていますが、説得力のあるものはまだないように思います。

kanikamaの推理ですが、この時代は、それまで日本で使われてきた「日本古来の太陽暦(日置暦とも言う)」に対して、「大陸由来の太陰太陽暦」が伝わった頃であることから、二つの暦の間には、表記法上で年数のずれが約300年あったことを意味しているのかもしれません。そのギャップと混乱を上手く物語に込めたのかもしれませんね。

皆さんはどうお考えでしょうか。

次回は、日置族の祖先のお話をします。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_90.html

2015年8月24日月曜日

理系の元祖「日置族」(6)深曽木の儀と日置盤

天皇家では、5歳になると成長を祝い、「着袴の儀」及び深曽木(フカソギ)の儀」を行います


特に、「深曽木(フカソギ)の儀」は、古代の皇室祖先天上から地上の日本降臨した表す儀式と考えられています。平安時代から皇室に伝わる儀式と言われています。


41年ぶりに行われた悠仁親王(5歳)の深曽木の儀(2011)

特殊な碁盤(21x21路、20x20マス)の上(天上を意味する)に立ち、下(地上を意味する)に飛び降ります。通常の碁盤は19x19路、18x18マスなので同じ碁盤ではありません。

この儀式に使う特殊碁盤日置盤」と呼ばれています。

日置盤は天上の神々が住む世界(宇宙)を表言われています

古代の太陽暦を扱った日置族の名前は、現代の皇室の行事にもしっかりと残っているわけです。

次回は、浦島太郎の不思議な昔話と日置族の関係をお話しします。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_25.html

 

2015年8月23日日曜日

理系の元祖「日置族」(5)日本古来の理系氏族

日置族の特徴については諸説ありますので、ここでは辞書(埼玉苗字辞典から代表的な内容を紹介します


日置に根拠地を置く一族は「日置部」と呼ばれ古代から続く名族。

2)日」とは「火」で、神霊を迎える聖火の準備をする役職でもる。

また太陽の移動によって時間を測定し、あわせて日暦を記録するつまり読みをする人たち(日置部)ではないかと思われる。
 

以上は、日置族の名前に由来に関する共通の理解です。但し、西日本を中心に広く分布していた各地の日置族は、その職位、専門性、出身・由来など必ずしも同じだったとは言えません。
(詳しくは、理系の元祖「日置族」(8)参照) 
http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_90.html)。
                            

さらに、もう一つ重要な特徴があります。

それは、各地の日置族の調査から、太陽暦のみならず、土木建築、鉄製品、古墳造りなどの高い技術を有した日置族が多くいました。

さて、「優れた技術は渡来人によって大陸から日本に伝わった」と書けば安心する歴史家が今も多くいます。これは大変残念な発想です。日本は古くから現在に至るまで世界トップクラスの文化や技術を持っています。しかし、なぜか欧米人や大陸アジア人に対して必要以上に卑屈になる日本人(特に知識人や新聞記者、マスコミ人に多いので深刻な問題です)がいて、日本の歴史を過小評価してきました。

現在でも日本のマスコミ人と学者は他国の評価ばかりを気にする傾向がとても強く、自分自身の内面から出る考えがありません。心理学ではこのような性格の人のことをミラーマン(鏡人間)と言うそうです。

ところが、日本人は昔からアジアの中でもなぜかダントツ理系が強い民族です。もともと大陸アジア人と日本人の特質が違うことは、ミトコンドリアDNA分析からもわかっています。例えば大陸アジア(中国、韓国)人と日本人は祖先が人種的にも異なることが科学的に証明されています。

もちろん交流によって、海外から様々な新しい技術やモノが日本に伝わったことはあると思います。しかし多くは新しくても未熟な基本技術であったり、使い勝手の良くない原型だったのです。

そこに日本人固有の優れた理系の技術の介入と改良があって初めて、多くの人が使用に耐える高い技術や完成品となり、そこで初めて国内や国外に拡散していったと思われます。古代も現代もそれは変わらないのです。

時折、日置族は高い技術を持っていたので渡来人ではという説をみますが、それも同様に早とちりでしょう。事実はまるで逆だったのです。一部の大陸製品を日本に持ち込んだ渡来人が、日本古来の技術集団日置族などと共同で作業を行い、日本でより高度な技術や製品に変化していったのです。

製鉄技術がそのよい例です。朝鮮半島よりも古代日本の製鉄技術はとても複雑で高度でした。まるでレベルが違います。土からとれる鉄の原料成分が日本では違うから基本技術も違う。日本刀で使われる繊細な鋼の技術レベルも朝鮮半島にはなかった。つまり、高い技術を開発し持っていた氏族は大陸や朝鮮人由来ではなく、古代日本人の技術集団氏族だったのです。

但し、多くの渡来人は日本のが安全で技術も高いので、日本で仕事を続けました。日本で生活し続けるために日本人古来の氏族の名前を名乗ったり、帰化したりした例が多かったのです。昔も今も同じことを繰り返しているのです。

大陸から太陰太陽暦が日本に伝わるずっと以前から、日置族は日本で日本固有の太陽暦(日置暦)を扱ってきた氏族であったことからも、日置族は日本古来の理系氏族(太陽信仰の民族)と考えます。

日本古来の太陽暦については、以下を参照。
http://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_8.html

次回は、現在の天皇家にも残る儀式と日置盤についてお話します。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2015/08/blog-post_24.html


日置族のイメージ図
山口県・北浦百景HP参照